短小亭日乗

短くて小さい日記

サイモン・ミットン編『現代天文百科』


この前はてなブログで「乗り物」というお題が出たので、乗り物としての地球について書いた。それが機縁で宇宙関連の動画を見たりしているうちに、ふと思い出したのが、私が若いころ、本屋で手に取って思わず瞠目した大冊のことだ。それはたしか岩波書店から、1980年ごろに出た宇宙の本だった。そのころ、私の天体嗜好(?)を育んでくれたのは、ホルストの、というより富田勲の『惑星』と、カール・セーガンの『コスモス』だったが、そういう時期にあって、美しいイラスト満載の、ずっしりと手に重い大型本は私につよい印象を与えた。

ただ、値段が高くてとても手の出るものではなかった。私は本を棚に戻しながら、いつか古本で手に入れればいい、と自分に言い聞かせていた。

あれはいったい何という本だったのか? ネットで調べればすぐわかるだろう、と思って探してみたが、見つからない。いくら検索をかけても、それらしい本にかすりもしない。しまいには、私が本屋で見た本は幻だったのではないか、という疑念すらきざしてきた。

どうにも埒が明かないので、図書館で『岩波書店八十年』という目録を借り出して、1980年ごろの刊行物を調べてみると、あった、あった! S. ミットンの『現代天文百科』というもの。これに違いない。値段をみると、12,000円とある。そりゃ手が出なかったわけだ。



というわけで、ようやっと探し当てた『現代天文百科』だが、意外にタイトルが平凡なのに拍子抜けがした。だって、カール・セーガンの本でさえ『コスモス』なんていうしゃれた名前がついてるんですよ。もうちょっとなんとかならなかったのか、という気がする。

しかしそんなことよりも、この本が今や古書価で千円そこそこというのが驚きだ。この手の本が、いかに需要がないかが痛感される。たしかに、大型の紙の本など、場所ふさぎの邪魔物でしかないのかもしれないが……

私はもちろん買いましたよ。ネット古書で、1,000円のものを。……

「いつか古本で……」という、かつての私の願いはかなったことになる。しかし、あのころの大きかった夢がぺしゃんこになって返ってきたような、なんともいえない残念な気持ちだ。


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数日後に届いた本書を見ると、やはり時の経過というのは残酷なものだと思った。この本のいったい何が、かつての私を茫然自失たらしめたか、いまとなっては理解に苦しむ。上に「美しいイラスト満載」と書いたが、それも私の記憶違いで、イラストより本文のほうが圧倒的に多い。ひとことでいって「お勉強」用の本であり、興味本位でぱらぱら眺めて楽しめるような本ではない。

しかし翻って考えてみれば、そういう眺めて楽しむたぐいのものは動画サイトでいくらでも見られるのだから、こういう手堅い本で宇宙の仕組みを根本から知るのも別種の楽しみと思えばいい。

本書の内容は、広い意味での宇宙論コスモロジー)だと思う。かつてある詩人は「原子論的に宇宙を観照せよ」といった。私はこれを改変して、「宇宙論的に単子(モナド)を観照せよ」といいたい。コスモロジーモナドジーが交差する地平に身を置いてみよう。そこから何が見えるだろうか?

エドガー・ポーの世界


お盆といえばやはり怪談物ですよね。うちにも怪談と名のつく本はある。昔買った、古ぼけた全集の端本。それを開いて読んでみると──

これが意外におもしろい。思わず釣り込まれるが、その話は後回しにしよう。


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西洋怪談といえば、エドガー・ポーと相場はきまっている。その歴史は長い。なにしろポーが最初に紹介されたのは明治20年、つまり1887年のことなのである。

饗庭篁村による「黒猫」は明治時代らしい大らかな訳文で、原文とかけ離れているところにも味がある。

多くの飼物のうち如何いふ訳か私ハ一番此猫が可愛くて朋友よりも睦じくし食物も人の手を借らずに是だけは自分で養うほど。プルトウも又私の跡を慕ひ外から戻れバ遠くより足音を聞て走ツて来る。夫ゆゑ家へ帰ツて上り段で最初私しの眼につくものは何時も此の黒天鵞絨の愛敬袋であツた……


そのポーの、怪談の代表作である「アッシャー家の崩壊」を大胆に翻案したジャン・エプスタンのサイレント映画がある。「アッシャー家の末裔」という題で、youtube でも視聴できるが、小さい画面では肝心な情報を見落としてしまうので、これはちゃんとしたDVDで見たほうがいい。



このエプスタンの映画でちょっと面食らうのは、これが怪奇映画でありながら、ひとりの犠牲者も出ることなく、ハッピーエンドで終っていることだろう。主人公二人が死んでしまう原作とは大違いだ。

原作では兄妹間の近親相姦がほのめかされていたが、この映画ではむしろ母子相姦ともいうべきものがほのめかされている。というのも、ロデリックの妻のマデラインは、先代の妻、つまり自分の母の生まれ変わりなのだ。なぜそれが分るかというと、先代の妻の肖像画に Ligeia と銘があって、ポーの「リジイア」を知っていれば、なるほどそういことか、と納得が行くのである。

こういう観点からすると、アッシャー家の呪いというのは、主人公が自分の母を妻にしているというエディプス的状況に由来するもので、火災によってアッシャー家のすべてが灰燼に帰したとき、主人公(たち)はようやく積年の呪いから解放されるのである。

この映画のすばらしいところは、原作でロデリックが描くことになっている絵の情景が、そのままセットに活かされていることだ。あの異様な室内空間の秘密が知りたかったら、原文を見ればいい。私見によれば、そこにはおそらくピラネージの描く「牢獄」シリーズも影を落としている。


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ところで、このポーの短篇をドビュッシーがオペラに仕立てようとして果たさず、未完のまま終ってしまったことはよく知られている。私はプレートルの指揮するCDでその復元された部分の録音を聴いていたが、フランス語の台詞が聞き取れないので、何がどうなっているのかさっぱり分らなかった。

ネットを見ると、その問題作の「試補筆版」が、青柳いづみこさんのプロデュースによって実現したとある。youtube にあがっている動画を見て、私は驚いてしまった。ちゃんと字幕があって歌の内容がわかるし、なによりもピアノ伴奏と、歌手たちがすばらしい。まったく危なげのない歌唱で、外人に見せても恥ずかしくない出来だ。

バリトン三人にソプラノ一人、しかもソプラノの出番がほとんどないので、一般的にはちょっと厳しいものがあるだろう。しかし私には、長いこと気になっていた曲だけに、りっぱな演奏で聴かせてもらえたのは非常にありがたかった。


井筒俊彦『意味の深みへ──東洋哲学の水位』


ときどきひどく分りにくい文を書く人がいる。いわゆる悪文家。もうちょっとわかりやすく書けませんかね、と文句のひとつもいいたくなるような人々だ。

井筒俊彦はその正反対だ。かれの書く文はすばらしく明快である。かれの本を読んでいると、こっちまで頭がよくなったかのような錯覚に陥ることがある。

しかし、私の思うのに、井筒はわかりやすい文しか書けない文筆家なのである。明晰にあらざるものは井筒的ではないのだ。それはもちろんわるいことではない。しかし、この点を無条件で称賛していいかどうか。


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井筒先生は国際的に認められた碩学だそうだ。この本にもジャック・デリダの先生宛の書簡が付録としてついているが、それを見ると、まさに叩頭の礼をつくさんばかりの丁寧な文面に驚く。

いったい井筒の何が、デリダのような海千山千の哲学者をここまでへりくだらせるのか。

それは、井筒がたんなる碩学ではなく、オカルティストであることによる。デリダをして畏敬せしめたのは、東洋の道士としての井筒の風格ではなかったか。

じっさいのところ、この本で展開されている思考はまぎれもない隠秘学であって、ときにトンデモの領域に近づく。井筒先生、勉強のしすぎで頭がおかしくなっちゃったんじゃないか、そう思う人がいてもふしぎはないような、かなりぶっとんだ説が述べられている。

そして、そのような先生の思考の運動が、デコンストリュクシオン(déconstruction = 脱構築、解体構築)というデリダの用語と重なり合いながら進むところが、本書の妙味である。何を解体するか、言語の表層を。何を構築するか。言語アラヤ識を。


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マルクスは世界の解釈ではなく、その変革を標榜したが、オカルティズムでは、世界の解釈と変革とはふたつのものではなく、ひとつの運動である。世界を解釈しなおすことが、世界を変革することなのである。この解釈と変革とを一直線につなぐための戦略が、さきにあげたデコンストリュクシオンだ。

もしそれがうまくいけば、この世の不条理に苦しんでいる人々にとっての福音となるだろう。じっさい、この本を読む限りにおいては、そのことは不可能ではないのだ。いま、ここで、この世界を楽園にするための条件は、ほぼ整っているのである。

しかし、もちろんそれはたやすい仕事ではない。にもかかわらず、先生の流麗な筆は、その難事をこともなげに語ってしまっているのだ。最初に書いた、わかりやすいことが無条件によいとはいえないというのは、こういう事態をさす。われわれは先生の文に乗せられて、かなり見晴らしのいい高所まで案内されるが、そこで不意に先生の声はとだえる。まわりを見渡しても、なにも支えになってくれるものはない。さてどうするか。

われわれはオカルティストとしての先生の幻術にかかったのである。


リリアン・ギッシュ──永遠の相のもとに


日夏耿之介が大正十五年に書いた雑文「中世活動写真考」に、

『中世智慧の輪』の中から活動写真の項をしらべ出して研究して世間をあつと云はせんものと、……さて若し若しあつたとしたらばなんと思召す、イゾルデ姫にリリアン・ギッシュ見たやうな美女が扮し、強力ヘルキュレスにはカビリヤに出て来る大男見たよなのがあり、ニオベをメアリ・カア夫人がやつたやうな調子であれば、……


というくだりがある。どうも前後の文を読み合わせると、揶揄しているようにも読めるのだが、ここはやはりリリアン・ギッシュの美貌が日夏のような偏屈詩人の心をも捉えたと解釈しておきたい。

私がリリアン・ギッシュを知ったのは、淀川長治の対談集『映画千夜一夜』(1988年)においてだが、その後何本か彼女の出た映画を見たかぎりでいうと、内容としてはつまらないものが多いように思う。どうもアメリカ映画はサイレントには向いていないようだ。

しかし、映画がどんなにつまらなくとも、リリアン・ギッシュの存在感だけは否定のしようがない。彼女のまわりだけ後光がさしているようで、当時の観客は、映画を見に行くというより、リリアン・ギッシュを見に行くつもりで映画館に足を運んだのではないか。そして、彼女のこうした美質は映画のみならず、スチル写真、わけてもブロマイドにおいて真価を発揮する。


Tribute to the great Lillian Gish


彼女を見ていると、ゲーテの『ファウスト』末尾の「永遠に女性なるもの、われらを引きて往かしむ」という詩句を思い出さずにはいられない。

永遠に女性なるもの、それはたとえばダンテにおけるベアトリーチェであり、セルバンテスにおけるドルシネアであり、シェイクスピアにおけるコーデリアであり、ゲーテにおけるグレートヘンであり、ドストエフスキーにおけるソーニャである。

こういった系譜のハリウッドにおける現れが、リリアン・ギッシュであろうと私は思っている。


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いつだったか、古本屋のカタログを眺めていて、リリアン・ギッシュのブロマイド一括というのが売りに出ているのを発見した。これにはちょっと心が動いたが、ぐずぐずしているうちに売れてしまった。

もしかしたら、日夏耿之介もそんなブロマイドを一枚くらいはもっていたのかもしれないな、と思う。もちろんそれは『美の司祭』の著者の品位をなんら貶めるものではない。

稲垣足穂『少年愛の美学』


これはいいときにいいものを読んだ。というのは──

男性も更年期を迎えるころにはあっちのほうがさっぱりご無沙汰になる。それはそれでいいのだが、これまでP(すなわち penis)を中心にして築き上げてきた自我が、Pの衰勢とともに崩壊の危機にさらされるのである。これはじっさいクリティカルな状況だ。下手をすると鬱になりかねない。強精剤を飲んで乗り切る(?)のもひとつの手だが、もうひとつの冴えたやり方がある。それは自我の中心をPからA(すなわち anus)に切り替えるのだ。

じつをいうと、切り替えるというのは正しくない。なぜなら、A感覚こそが人間を生まれてから死ぬまで導いている原感覚であって、P感覚なんていうものはAのあとにできた、いわばA'のごときものにすぎないのだから。

P感覚をカッコに入れて、幼少時から培ってきたA感覚を再興させること、すなわちA感覚的還元こそが更年期をぶじ切り抜けるための要諦でなければならない。

まあ、ほかの人はどうか知らないが、私はそういうふうに本書を読んだ。そしてそんなふうに読むと、本書はじつにおもしろい。

あくまでもA感覚にこだわる著者にとっては、紅顔の美少年は「肛顔の美少年」でなければならない。いいかえればA顔の美少年だ。著者にとって、P顔の美少年などというものは存在しない。いかなる美少年もP臭くなってしまってはおしまいだ、というのが著者の意見。

私もPに見放された今だからこそ、肛顔の美老年を目指したいと思う。