鉱物のことなど
ブログの説明に「本、鉱物、音楽」とあるのに、鉱物についてはまだ何も書いていない。
じっさい鉱物については書きにくい。いちばん簡単なのは、手に入れた標本について、「こんなの買ったよ」と画像と名前だけ出しておくことだ。しかし、そんなものにはだれも興味をもたないだろう。
記事にある程度の興味をもたせたいと思えば、多少なりとも鉱物学をかじる必要がある。ところがこの鉱物学というのがめんどくさくてね。
私はこの方面では堀秀道氏の『楽しい鉱物学』(草思社)という本しか読んでいないが、ちゃんと理解できたかといえば否。ただ、この本のなかで宮沢賢治が大きく取り上げられているのが印象的だったのと*1、その関連で鈴木敏の『宝石誌』という本が紹介されていたのはありがたかった。この、大正5年に出た鉱物学の古典(?)は、原本だと数万円、復刻版でも一万円近くするが、読むだけなら国会図書館のデジタルコレクションで閲覧できる。
こういう本を無理して買っても、高確率で積読になる。あこがれの気持をもって、オンラインで眺めているのがいちばんいいのかもしれない。
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化石の標本が一期一会であるというのはよくいわれるが、鉱物の標本はそれ以上に一期一会の要素が濃い。いったん見送ったら、もうその種類の標本には一生出会えないかもしれない。その話をしよう。
私が鉱物に興味をもったのは、化石とほぼ同時期で、六年ほど前のことになる。そのころ ebay を眺めていて、これは! とショックを受けたのが erythrite という鉱物だった。下に見本をあげるが、そのとき見たのはもちろんこれとは別の、小ぢんまりした標本だった。
そのころは相場を知らないので、どのくらい出せば手に入るのか、さっぱり見当がつかない。ある程度まで金額が上ったところで見送ったが、まあ似たようなのはいくらでも出てくるだろう、とそのときは軽く考えていた。ところが──
それ以後、五年以上ヲチしているが、こういうモコモコしたタイプのエリスライトにお目にかかったためしがない。だいたいはぐちゃっとつぶれているか、尖っているかのどちらかだ。なにしろ初めて見たときのインパクトがつよすぎたので、どうしてもモコモコタイプじゃなきゃいやだ、と駄々をこねているうちに、いつのまにか五年の歳月が流れ去った。
もしかしたら、このタイプのエリスライトは、モロッコでも稀少で、市場に出る前にマニアが押さえてしまうのかもしれない。
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こういうモコモコした結晶は、botryoidal と呼ばれる。botrys はギリシャ語で「葡萄」だから、botryoidal は「葡萄状の」という意味になる*2。
私はこの手の標本が好きで、いくつか持っているが、いちばん気に入ってるのは shattuckite という鉱物で、シャッタカイト・ブルーといわれる深みのある青色が特徴だ。
永遠の夏 ── L'été éternel
永遠の、とくれば、夏、ですよね。永遠の冬なんていうのは考えにくい。ましてや永遠の春や秋などありえない。それらは来てはまた過ぎ去るものだ。
これは夏をあらわすフランス語が「エテ」なので、それが「エテルネル(永遠の)」を連想させるのだろうか。いやいや、そんな浅薄な理由であるはずがない。
思うに、夏が永遠の感覚を喚び起すのは、おそらく子供のころの夏休みの存在に関係がある。夏休みに入ったころの、つまり7月下旬のあの感覚、休みがいつまでも続くようなあの甘美な感覚が、おそらく「永遠の夏」の印象の因ってきたるところだろう。
私はごろりと横になって目をつぶり、扇風機の風をあびる。そうすると、やはりそういう姿勢で体験した過去の夏の思い出が鮮やかによみがえってくる。それは子供のころ住んでいた安アパートの二階であり、高校のころクラブ活動に出かける前のつかのまの休息であり、あるいは社会人になってから仕事で出た現場での昼の休憩だったりする。
私という中心のまわりに同心円状に描かれていく夏のイメージ。これがあるために、夏は一年でいちばん好きな季節になっている。暑くてだるくて何もする気がしないから嫌いだ、という人もいるだろう。しかしこれも、何もせずにぼーっとしている状態がどれほど人生を豊かにしてくれるか知らない人のいいぐさだ。
西行は花のさかり(つまり春)に死ぬことを望んだ。私は蝉の声をききながら夏のさかりにぽっくり死にたいと思う。永遠の夏のなかに永遠に葬られたいと思うのである。
矢野目源一の肖像
音楽におけるヴァンピリズム
ギターを手にしてはや一年が過ぎた。この間、とくに練習らしい練習はしていないが、CDに合わせて即興的にギターを弾くのはよくやっている。たとえばバルトークの弦楽四重奏。この前衛的かつ変態的な曲集は、かつては洒落で聴いていたが、ギターで合わせるようになってから、やっと本格的に耳を傾けるようになった。
私は必ずしもバルトークのよい聴き手ではないけれども、この音楽史上に屹立する魔人(?)については、前から一種の思い込みがあって、それは、バルトークこそは音楽におけるヴァンピリズムの体現者ではないか、というもの。
ヴァンピリズム(vampirism)というのは、辞書をひくと、吸血鬼信仰だとか、吸血行為もしくは膏血をしぼりとること、などの説明があるが、私としてはもっとゆるく、世間によく見られるような、吸血鬼愛好というほどの意味で使っている。吸血鬼の愛好者というのは、世の中に一定数存在していて、本などでも吸血鬼という字が題名に入るだけで売れ行きがよくなったりすることもあるようだ。
バルトークはいろんな点で吸血鬼と親和性が高い。まず彼がハンガリーの生まれであること。吸血鬼の本場がハンガリーであることを思えば、両者になんらかの関係を認めたくなるのも当然だろう。
それから次に、彼が民謡を採集したことがあげられる。どういうつもりでそんなフォークロアまがいのことをやったのか知らないが、ここにも私はヴァンピリズムの匂いを嗅ぎつける。というのも、吸血鬼の魅力は、土俗的なものと貴族的なものの混淆にあると考えられるからだ。
彼の代表作のひとつに『青ひげ公の城』がある。この青ひげ公というのは、ペローの童話に出てくる残忍な貴族で、そのモデルは十五世紀フランスのジル・ド・レーだといわれている。ジルは生きている吸血鬼の代表格として、その手の本には必ず取り上げられるし、それと対をなすエルゼベート・バートリは、バルトークと同じくハンガリーの生まれだ。
あと、思いつくままあげてみると、まずバルトークの風貌。あれで唇を赤く塗って、牙を生えさせたら、そのままドラキュラ役として通用するのではないか。それから彼のベラ(もしくはベーラ)という名前がある。これはどうしたってドラキュラ役で一世を風靡したベラ・ルゴシを連想させずにはおかない。
昔の無声映画、たとえばムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』を見ながら、弦楽四重奏曲をバックに流してみれば、いかに彼の音楽が吸血鬼と相性がいいかよくわかると思う。
ルイ・マル『地下鉄のザジ』
大昔にテレビで見たものの再鑑賞。コメディはアメリカのものがダントツでおもしろいが、フランスもなかなかやりおるわい、といったところか。
そういえば、私がはじめてパサージュなるものを知ったのもこの映画の中でだった。そのときは、こんな夢のような商店街が実際にあるとは思いもしなかった。その後何年も経って、ベンヤミンの『パサージュ論』を読んだとき、はじめてそれがパサージュと呼ばれる建造物であることを知った。
ベンヤミンは次のように書いている。
パリの市街地図から一本の刺激的な映画を作り出すことができるのではあるまいか。パリのさまざまな姿をその時間的な順序にしたがって展開していくことによって、街路や目抜き通りやパサージュや広場のここ数世紀における動きを三〇分という時間に凝縮することによってそれができるのではあるまいか。それに、遊歩者が行っていることも、まさにこれ以外のなにものでもないのである。■遊歩者■
(『パサージュ論 I』、p.162)
そうだ、パリはベンヤミンの、いやボードレールの昔から、たしかに遊歩に適した街なのである。この映画に出てくるトルスカイヨンは、正体不明の怪人物だが、その実体は「パリの遊歩者」ではないかと思う。