短小亭日乗

短くて小さい日記

鷲巣繁男『戯論』


由良君美の『みみずく古本市』で見て興味をもったもので、だいぶ前に手に入れたまま積読になっていた。本書の副題に「逍遙遊」とあって、おそらくこれはマラルメのディヴァガシオンから想を得たものだろう。しかし、その divaguer ぶりは本家をはるかに凌駕する。いったい今の日本で、この本を隅から隅まで味解できる人がはたして何人いるだろうか。いや、味解どころか、読み通すのがまず難事なのだ。

思うに、こういうものを好んで読む人こそ、真のバロック的人間と称すべきなのである。私は本書を通読して、自分がつくづく古典主義的な人間であることを痛感した。そして、バロックという「無駄」につきあっている余裕はもうないのだ、ということにも思い当った。

本書に引用されているおびただしい書目、それらがすべて自分の蔵書であるといういうので、著者はちょっと得意顔なのだが、これもいまの私にはばかばかしくみえる。家じゅうが本だらけなどというのは、若いころにはちょっと憧れたものだが、いまとなってはたんに煩わしいだけだ。蔵書というのもまたバロック精神の発露なのである。

本書は、一見ごちゃごちゃしてるようにみえるが、よくよく見てみれば、一般的詩論(歌論、俳諧論)、文学的雑談、自分語り、それから加藤郁乎論、というふうに分けることがでいる。自分語りにはけっこううざいものがある。こういうものに熱を入れる人間にろくなやつはいない。一般的な詩論はかなり根底のあるもののようにみえるが、例証となる和漢の古典がこちらにはさっぱりなので、猫に小判ということになる。文学的雑談についても、こちらの知識不足で十分に楽しめない。そして、加藤郁乎の俳句というのが、うわべだけ奇を衒った中身のないもので、あえて論じる必要はあるのか、と首をかしげてしまうようなしろものだ。

まあ、中身がないだけに、そのからっぽの内部にはありとあらゆるものを詰め込むことができる。意地悪くいえば、著者は郁乎の俳句をネタにして、おのれの博識と機智とを存分にひけらかしているのだ。

博識と機智、このバロック的なものが幅を利かしているあいだは、若やいでいられる。それらの虚しさを感じ始めるときから、老化が始まり、文学は廃れる。おそらく今後このような本が書かれることはないだろう。日本にはあまり例のないバロック文学の、最後の、そして最大の白熱が本書にはある。そのことだけは確かだ。