短小亭日乗

短くて小さい日記

井筒俊彦『意味の深みへ──東洋哲学の水位』


ときどきひどく分りにくい文を書く人がいる。いわゆる悪文家。もうちょっとわかりやすく書けませんかね、と文句のひとつもいいたくなるような人々だ。

井筒俊彦はその正反対だ。かれの書く文はすばらしく明快である。かれの本を読んでいると、こっちまで頭がよくなったかのような錯覚に陥ることがある。

しかし、私の思うのに、井筒はわかりやすい文しか書けない文筆家なのである。明晰にあらざるものは井筒的ではないのだ。それはもちろんわるいことではない。しかし、この点を無条件で称賛していいかどうか。


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井筒先生は国際的に認められた碩学だそうだ。この本にもジャック・デリダの先生宛の書簡が付録としてついているが、それを見ると、まさに叩頭の礼をつくさんばかりの丁寧な文面に驚く。

いったい井筒の何が、デリダのような海千山千の哲学者をここまでへりくだらせるのか。

それは、井筒がたんなる碩学ではなく、オカルティストであることによる。デリダをして畏敬せしめたのは、東洋の道士としての井筒の風格ではなかったか。

じっさいのところ、この本で展開されている思考はまぎれもない隠秘学であって、ときにトンデモの領域に近づく。井筒先生、勉強のしすぎで頭がおかしくなっちゃったんじゃないか、そう思う人がいてもふしぎはないような、かなりぶっとんだ説が述べられている。

そして、そのような先生の思考の運動が、デコンストリュクシオン(déconstruction = 脱構築、解体構築)というデリダの用語と重なり合いながら進むところが、本書の妙味である。何を解体するか、言語の表層を。何を構築するか。言語アラヤ識を。


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マルクスは世界の解釈ではなく、その変革を標榜したが、オカルティズムでは、世界の解釈と変革とはふたつのものではなく、ひとつの運動である。世界を解釈しなおすことが、世界を変革することなのである。この解釈と変革とを一直線につなぐための戦略が、さきにあげたデコンストリュクシオンだ。

もしそれがうまくいけば、この世の不条理に苦しんでいる人々にとっての福音となるだろう。じっさい、この本を読む限りにおいては、そのことは不可能ではないのだ。いま、ここで、この世界を楽園にするための条件は、ほぼ整っているのである。

しかし、もちろんそれはたやすい仕事ではない。にもかかわらず、先生の流麗な筆は、その難事をこともなげに語ってしまっているのだ。最初に書いた、わかりやすいことが無条件によいとはいえないというのは、こういう事態をさす。われわれは先生の文に乗せられて、かなり見晴らしのいい高所まで案内されるが、そこで不意に先生の声はとだえる。まわりを見渡しても、なにも支えになってくれるものはない。さてどうするか。

われわれはオカルティストとしての先生の幻術にかかったのである。