そぞろごと

退嬰老人日記

年頭所感

初詣に出かけた人は、今年は少なかったのだろうか。私はめったに行ったことがないが、今日になって近くの神社に足を運んでみた。

三日の午後なので、あまり人もおらず、がらんとした感じだった。コロナの影響か、鈴がなくなっていたが、あれがないとどうも神社に来たという気がしない。

今年は、三が日だけでも仏壇に線香をあげようと思って、仏花の水換えも毎朝やった。こういうのは自分には珍しいので、それはたぶん前に読んだ深見東州の『強運』の影響だろうと思う。あの本は、山師の書いたハッタリ本だと思う人が大半だと思うが、私は山師でもイカサマ師でも、その人から学ぶものがあれば遠慮なく学ばせてもらうことにしている。あの本は、私のなかに潜むオカルト的人間を目ざめさせてくれた。

オカルトの重要な教えのひとつに、「上なるものは下なるものごとし」というのがある。あるものが上にあるのか、下にあるのか、それは観点の違いにすぎない。人は神を上にあるもののように思って、天に向って礼拝する。しかし、神や仏というものは、上にあるというより下方、それも万物の底の底に、普遍的なものとして横たわっているように思われる。

神を霊的実体とみる説は古くから行われている。それが当っているかどうかはともかくとして、霊的であろうがなかろうが、神を実体とみるかぎり、それは下にあるもの(実体 substance は下に立つものの意味)とみなすのが正当ではなかろうか。神は上部構造ではなく、下部構造をささえる原理的なものだと考えるほうが、私には真理に近いと思われる。

私はさらに考える、外なるものは内なるもののごとし、と。神はどこか超越的な時空に存在するのではなく、いまここ、この自分の内部に存在するのだ。それは神性といってもいいし、仏性といってもいい。そういうものが、自分の内部の、それも存在の底の方にましますといえば、つまるところ遺伝子というものが神の正体だということになるだろう。

私はいまのところ、冗談抜きで遺伝子=神であるという説を信じている。神に祈るということは、己の遺伝子に語りかけることにひとしいと思っている。

まったく、われながら正気の沙汰とも思えないが、上にも書いたように、オカルトの玄義として相反するものの一致ということがある。われわれは己の遺伝子とじかに交渉をもつことが不可能であるから、それをあたかも外部の、しかも上方にあるものと仮定して、それを神と呼んだり仏と呼んだりして敬うのである。

祖先崇拝というのもその典型であって、祖先というのは、遺伝子に蓄積されてきた情報を、時間的、擬人的に過去に投影したものだと考えることができる。祖先はわれわれの遺伝子の中に、いまなお生きて活動している。

仏壇に手を合せて祖先を祭るというのは、自分の中の遺伝子に間接的に働きかけているのだ。

というようなわけで、2021年は私にはオカルト元年になってしまった。

年末の一日に

ふと思い立って芥川の「年末の一日」を読んでみようと本を取り出した。5ページあまりの小品。

年末に知り合いの記者と漱石の墓参りをしたという、ただそれだけの話だが、末尾に車曳きの男が箱車を曳くのを手伝ってやる場面がある。それは東京胞衣会社の箱車なのだが、この胞衣会社というのが私の興味を惹いた。いったいどういう会社なのか。

調べてみたら、どうも胞衣の処理をする清掃会社のようだ。なんだかがっかりだが、芥川は胞衣に関心があったのだろうか。未定稿の「人を殺したかしら」にも胞衣や胞衣塚の話が出てくる。

私は胞衣というものがどういうものか、見たことはないけれど、たとえばレオナルドの「聖アンナ」の地面にそれとなく描きこまれた「もつ」なども胞衣と考えれば、たんなる汚物というのではなく、もっと象徴的な意味合いをもった言葉のような気がする。


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エンニオ・モリコーネが音楽担当をしているというので、『レディ・イポリタの恋人──夢魔』という映画を見る。エクソシストの二番煎じらしいが、イタリア映画だけあってかなりあくどい。それはともかくとして音楽だが、これはモリコーネは名前を貸しただけではないかと思う。ホラー映画とパイプオルガンとは親和性が高く、当然のように効果をあげているけれども、モリコーネならそんなありがちのやり方をせずに、もっと意表をついた音楽を提供していたのではないか。


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夢魔』を見てから、うちにあったDVDを何枚か見直した。買ったDVDを一回見ただけでしまっておくのは、もったいないと思ったからだ。一回見るためだけなら、とくに手元に置いておく必要もないわけで。

フェリーニのローマ』。見どころはいくつかあるにしても、全体としてはつまらない映画だ。印象的なシーンをひとつ選ぶとすれば、渋滞した車の列に取り囲まれたコロッセオが映し出されるところ。あれはファンタスティックだった。

ブルジョワジーの秘かな愉しみ』。これもあまりおもしろくない。夢オチの連続というのは、観客をバカにしてはいまいか。

『小さな悪の華』。これは『思春の森』と同系統の作品で、アドレサンスの魅力に対する感性を失った人間には、まさに気の抜けたビールのような味気なさだ。観客を選ぶ映画。

あと、買っただけで見ていないDVDが一枚あった。こういうのはひどいと思う。動画サイトで見て感心したので、ちゃんと見てみようと思ってDVDを買ったのだが、それから10年近くも寝かせているのは自分でも呆れてしまう。


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英文学ですぐれているのがエッセイだというのは、昔からよく聞かされている。エッセイにこそアングロサクソンの真骨頂が示されている、というのだ。

たとえば十七世紀のトマス・ブラウン。みんなが褒めるので読んでみようと手に取ったが、おそろしくとっつきにくい文体で、何が書いてあるのかわからない。しかたがないので、邦訳を手に入れて読んでみたが、なるほど訳されてみれば意味はとれるが、今度はその内容が意外に平凡でつまらない。

同じことはディ・クィンシーについてもいえる。彼の本も原文はかなり難解で、書いてある意味がよく呑み込めず、ときに五里霧中に陥る。とはいっても、これくらいは読めなければ英文を読んだとはいえないので、大学の英文科などでは、このレベルのものが演習などで使われるのだろう。

私は英語にしても、英文科の学生レベルにも達していないという、情けないありさまなのだ。

まあそれはそれとして、『英国の郵便馬車』ではカンニングをして、邦訳を読んでみた。そして、ここでもやはりたいしたことが書かれていないのを確認した。

トマス・ブラウンとディ・クィンシー。英文学では大きな存在なのかもしれないが、内容的にはそう大したものではないのでは、と思う。取るべきものは文体だが、これも私のレベルではそのよさがわからないので、けっきょくのところ、英国のエッセイ的文学は敬して遠ざけておくのが無難だと感じた。


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リペアに出してあったギターが返ってくる。二ヶ月ぶりに手に取ったが、はじめはやはりお客様モードで、おっかなびっくりといった感じだった。箱入娘を扱うように、弾いたあとは弦を拭いていちいちケースに戻していたが、さいきんになってだんだん扱いがぞんざいになってきた。それでいいので、そうなって初めてギターが私にファミリアーなものになるのだ。といっても、傷をつけるのはもうこりごりなので、その点だけは注意しようと思う。

ギターが満足に弾けない間、ユーチューブでギターのレッスン動画をいくつか見てみたが、どれもこれもダメだ。お勉強臭がつよすぎる。楽器というのは、練習したからうまくなるわけではなく、またうまくなったからといって楽しくなるわけではない。変な話だが、弾けるひとは初めから弾けるんだよね、練習なんかしなくても。練習をしないというより、練習の質がまったく違うので、コツをつかんだらあっというまに上達してしまう。それはもう生得的としかいえないものだ。

できない人はいくらがんばってもダメ。そのことを骨身にしみて知っているにもかかわらず、練習次第でできるようになるような幻想を抱かせる講師のめんめんは、じつに善人の皮をかぶった悪党だ。

ユーチューブはそんな悪党どもの跋扈する魔界だから、純真なる学習者たちはくれぐれもご注意を。

近況

日本では年末の年中行事に組み込まれているベートーヴェンの第九。私もなんとなく毎年クレンペラーのものを聴いていた。今年はふと思い立ってユーチューブでフルトヴェングラーのものを聴いてみた。いままであまり好きではなかった第九だが、この演奏はすごいと思った。1942年の演奏で、ヒトラーゲッペルスも聴衆の中にいただろう。しかしそういう背景は抜きにして、演奏だけとってみると、フルトヴェングラーという人が、精神性なんかくそくらえの、肉体派であったことがよくわかる。その圧倒的な音圧とスピード。これはもうヘビメタだ。彼の演奏は、人間の肉体に直結した情念にじかに働きかけるがゆえに、伝説と化したのではないかと思われる。

フルトヴェングラーの演奏に感心したので、またクレンペラーのものを取り出して聴いてみたら、これまでよりもずっと曲のよさがわかるような気がした。クレンペラー盤のよさと、第九の醍醐味がいまごろやっとわかった。


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パソコン黎明期に集めたエロ画像。それらはパソコンの故障とともに失われてしまったが、私が自分のパソコンに保存した、記念すべきエロ画像第一号をたまたまネットで見つけた。なんという懐かしさ!

記念のため、顔写真だけ出しておく。出所は Schulmädchen nr. 69 というエロ雑誌。



それと、同時期(たぶん1996年ごろ)に保存したものを失ってから、その後二度と見ることのなかったモデルの画像も見つけたので、これもまた顔写真だけ出しておこう。彼女については、本名(?)とともに生れた年まで書いてあって、ネット時代の残酷さを感じる。



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ベーシストあるあるで、とくにウッドベース奏者についてよくいわれるのは、左手の握力が右手を上回ってしまうというもの。ウッドベースの弦の張力は、4本合せると1トンといわれるほどだから、そんな話も出るのだろうが、このたび筋トレの一環として、COCのグリッパーを買って握ってみたところ、ややり利き手(右手)のほうが握力が強いことが判明した。

ちなみにこのCOCのグリッパーだが、私の買った1番というのは、だいたい閉じるのに65キロくらいの握力が必要らしい。私はこのグリッパーが閉じられないので、握力は60キロもないことになる。情けない話だが、徐々に握力も強化されているようなので、なるべく早く閉じられるようにがんばろう(左右とも)。

なお、このグリッパーで握力を鍛えた余禄として、ベースの演奏がかなり楽になったのには驚いた。ベースという楽器には握力強化が欠かせないといまさらながらに悟った。


蒐集趣味の終焉

だいぶ前にエリスライトという鉱物について書いたが、その後もいっこうに気に入る標本に巡り合えず、今後一生かかっても入手はむつかしくなってきた。

こういう先の見えない、ぐずぐずした流れに終止符を打つべく、中途半端なしろものではあるが、ともかくエリスライトの標本といえるものを買ってみた(モロッコ産)。

蒐集熱の高まっていたころは、梱包を解くのにも胸が高鳴ったが、今回はそういうのはいっさい感じなかった。現物を見ても、ふーんこんなものか、という、いたって冷めた反応しか示さなかった。

これをもってしても、私の蒐集熱がほぼ完全に冷めつくしたことがわかる。もうこの上、新たな鉱物を買うことはないだろう。今回のエリスライトで打ち止めにしておくのが、美しい幕切れというものだ。


erythrite


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化石とともに始まった私の蒐集熱は、足かけ五年ほど続いたあと、ある出来事をきっかけに急速に冷えこんでしまった。その後は、ふたたび白熱することもなく、ぶすぶす燻ったまま今日を迎えた。

しかし、蒐集という趣味をいっときでも持てたのはよかった。やはり男子と生れた以上、蒐集に無縁のまま一生を了えるのはつまらない。というのも、前にも書いたように、およそ男子に特有の行動は「殺す、集める、耕す」に極まると思われるからだ。

「集める」のもっとも原始的な形態は、女をたくさん集めてハーレムをつくることだろう。つまり、蒐集欲を駆り立てる原動力になるのはリビドーの働きなのだ。その後、蒐集の対象が多様化するにつれて、原的リビドーも形を変えていくが、根底にあるのは同じ。蒐集趣味全般にまつわる胡散臭さの原因は、この根本的出自のいかがわしさに発している。

自分のことをいえば、もう化石や鉱物はおろか、ありとあらゆる蒐集がわずらわしい。原的リビドーが枯渇してしまったのだ。こうして自分はつまらない人間になっていくんだな、と思う。つまらない、だれからも必要とされない存在に。

深見東州『強運』

本書はいまでもたまに電車の中の広告で目にする。けっして新刊というわけではないのだ。

まあ、あんまりたびたび目にするので、機会があれば読んでみたいと思っていた。しかし、そんな機会はなかなかこない。で、このたび思い切って自分で買ってみた(ネット古書で)。

本書を読んで感じたのは、「著者の意見はおおむねまっとう」ということ。一見トンデモに類する内容もあるが(というか、それが大半だが)、それもけっしてまちがった情報というわけではなく、著者のいうコンテキストに沿って理解するなら、ありうべきこととしてすんなり呑み込める(守護霊だとか、生れ変りの話だとか)。

とはいうものの、はたして強運というものを、人為的に引き寄せることができるだろうか?

本書で述べられた、強運を引き寄せる方法をことごとくやってみて、そのうえで成功するかどうかを決するもの、それこそが運勢にほかならない。人事を尽くして天命を待て、というのは、ここでも真理でありつづける。

もちろん、この諺が意味をもつためにも、人事は尽くさなければならない。そのための方法として、著者の述べていることは、なかなかに説得的なものだと思った。

が、人にも薦められるか、といえば、否。なぜかというと、これは偉人の銘々伝から帰納した方法と、オカルト本来の演繹的方法とが、恣意的に混淆されているからで、一義的に「こうしろ」というような、即効薬のような効果は望めないからだ。こういう題の本から人々が期待するのは、やはり即効薬であって、強運引き寄せにはもちろん即効薬などは存在しないのである。