そぞろごと

退嬰老人日記

ふたりのキース

──「まことに『老』というものは取り柄のないものである」


これは厨川白村の述懐だが、最近年をとるにつれて、私もしみじみそう感じることが多くなった。まったく、年をとっていいことなどひとつもありはしない。

年をとるということは、いままでできていたことが、少しづつできなくなっていくことだ。いちばん終いには、生きることそのものができなくなる。

私はときどき亡父のことを思い出す。父が私くらいの年齢だったころ、いったいどうしていたか、と。

父は、いろんなことができなくなっていく自分というものを認めようとしなかったのだろうか。年をとっても、とにかく頑固で手に負えなかった。やがてボケがきて、そのまま枯れるように亡くなった。


     * * *


いつだったか、ピアニストのキース・ジャレットが体をこわしてピアノが弾けなくなった、というニュースをきいて、ああついに、と思った。彼はまだその状況によく耐えているようだが、もうひとりのキース、ELPキース・エマーソンは、ピアノが弾けないことを悲観して自殺してしまった。

ジャレットとエマーソン、このふたりの卓越した音楽家にも、老いは容赦なく襲いかかる。かつて有能であったぶん、その損失の大きさには計り知れないものがある。マラルメのいう quelque haute perdition とはこういうことを指すんだろう。

できない自分を認めよう。そして新たな道を歩き出そう。たとえその道が先細りで、ついには袋小路になっているとしても。


     * * *


プラトンの『国家』より──

「どうですか、ソポクレス」とその男は言った、「愛欲の楽しみのほうは? あなたはまだ女と交わることができますか?」
ソポクレスは答えた、
「よしたまえ、君。私はそれから逃れ去ったことを、無上の歓びとしているのだ。たとえてみれば、凶暴で猛々しいひとりの暴君の手から、やっと逃れおおせたようなもの」


深層への下降

魔法使いになるために、ぜったいにやっておかねばならないこと、それは自己の精神の深層へ降りて行くことだ。これについては、座禅とかヨガとかいろんな方法がある。いちばんお手軽なのは瞑想だが、たんに目を閉じてリラックスしているだけではたぶんダメだろう。

ところで、この深層への下降ということでモデルになるのが、ダンテの地獄下りだ。下るところまで下ったところにルシファーがいて、その反対側に抜け出ると浄罪の山がある。ここからは山登りだ。てっぺんからさらに高く空へ、九天の高みへ、というふうに、ダンテの物語は魂の浄化の比喩でもある。

まあ、そういうふうに寓話仕立てにすれば話はわかりやすいが、それを実践するのは至難のわざだ。近所に禅を教えてくれる道場のようなのがあればいちばんいいんだけどね。

コロナが明けたら、そういうところを探してみてもいい。それまでは、本やネットで準備をしておこう。

ユーチューブにはダンテの地獄下りを映画化したものがアップされている。1911年にできたイタリア映画のようだ。こういうものがポロポロ出てくるんだからもうたまらないね。


途中経過

楽器を弾かなくなって10日が過ぎたが、初めのころと比べて指の調子はどうか。

まったくよくなっていない。それどころか悪化している?

いやはや、この調子でいくと、復帰できる日はこないかもしれない。つまり、もう二度と(まともには)楽器を弾くことができなくなるかもしれない。

かつては、そんな日がくるとは思わななかったし、もしそんな日がきたら、途方に暮れていたと思う。それは私の人生にとって大きすぎる損失だ。

さていまはどうか。もしかりにこのまま指がよくならず、楽器が弾けなくなるとして、私は悲観してしまうだろうか。

率直にいって、もし楽器が弾けなくなったら、それはそれで仕方ないんじゃないかと思う。もうすっぱり諦めよう。私にとって楽器とは、うまく弾くか、それとも弾かないかの二択だ。指が満足に動かない状態ではぜったいに楽しむことなどできないのだから。

ジャンゴ・ラインハルトは火事で左手に火傷を負って、薬指と小指が満足に使えなくなったが、めげずに独自の奏法をあみだし、全ヨーロッパを代表するギタリストになった。そのことはすごいと思うし、尊敬もするが、やはり彼の音楽にはどこか無理があると思う。率直に楽しめないのだ。彼自身、ギターを弾いていて楽しめていたのかどうか。

私はプロではないので、楽しめないことはやらない。休養期間はいちおう一ヶ月ときめているが、それが半年、一年、あるいは無期限に延びてしまっても、それはそれで仕方がないと諦めるだけの境地には達しているようだ。


魔術師露伴

この前ネットのニュースで、「まじ」という言葉が江戸時代から使われていた、という記事を読んだ。どうも書いてあることが嘘くさいな、と思って調べてみると、似たような記事は何年も前からあがっているようだ。

その「まじ」とは別に、「まじなう」とか「まじこる」という言葉があって、これらの語根になっている「まじ」はおそろしく歴史が古い。いや、それどころか、幸田露伴によれば、「この『まじ』という語は、世界において分布区域の甚だ広い語で、我国においてもラテンやゼンドと連なっている」とのことだから、一種の世界語でもある。露伴が念頭に置いているのは、ラテン語magia とか magus だろう。

この露伴説も、ほんとうにそうなのかどうかについては疑問があるが、私はおもしろい話だと思って聞いている。出所は彼の「魔法修行者」という短篇だが、魔法使いになりたがっている今の私はまさに「魔法修行者」だろう。

私が露伴の名言として記憶しているものに、「こころは巧みなる絵師のごとし」という言葉がある。改めてネットで調べてみると、これは露伴の発明ではなく、華厳経のなかにある文句のようで、その解釈も私が考えていたものと違っている。私は露伴にいっぱい食わされたのだろうか? とはいっても、私は露伴の文脈を離れてこの言葉を考えることができない。

露伴は古い言葉に新しい意味を巧みに吹き込んだのだ。そのあざやかな手際は、彼が幻術の使い手であることを示しているように思われる。


魔法使いになりたい望み

子供のころ、魔法使いになりたかった。

「魔法使いになりたい? ではなればいいではないか」

私はきょとんとする。そうだ、なりたければなればいいのだ。今からでも遅くはない。魔法使いになろう。子供のころの夢を実現しよう。

もちろん、子供のころに思い描いていたとおりの魔法使いになれるわけではない。けれども、それとはべつに、じっさいになることができる魔法使いもいるのだ。それは、オカルティストと呼ばれる人々で、世界各地に存在する。超人的なのもいれば、平凡なのもいる。多士済々といったところだ。

そもそもオカルティストとは何か。オカルティストになるための試験があるわけでもなく、そういう資格があるわけでもない。職業ではないのでこれでお金儲けをするわけにもいかない。個の宗教といわれるように、自分でオカルティストになったと思ったら、それだけで十分なのである。

日本には、意外なところにオカルティストがいる。たとえば詩人の北村透谷。これがオカルティストだった。こういうありかたはわれわれに自信を与える。もしかしたら自分もなれるんじゃないか、という気になってくる。

そしてテクストだが、理論も実践も、ネットにはあふれかえっている。どれをとればいいか迷うほどで、学ぶほうからすれば非常にありがたい状況だ。

というわけで、余生を魔法使いになることに費やすというのもわるくない選択だと思うのである。