そぞろごと

本、鉱物、音楽、etc.

ベースをリペアに出す

こんなことは書いてもしかたないのかもしれないが、まあ愚痴みたいなものですね。

事の起りは、ベースの弦高を下げようとして、駒を削ったことだった。これがつい削りすぎて悲惨なことになった。胴の横に大きな穴が開いているのが前から気になっていたので、これを機にリペアに出すことにした。

修理が進むにつれ、あちこち悪い箇所が見つかって、オーバーホールの様相を呈してきた。当初の見積金額を超えないという条件で、ネック折れを含む損傷をすべて見てくれたリペアマンには感謝している。

さて、できあがったものを見ると、ものすごくうまく修理してあって、よぼよぼの老人が奇蹟の回春をはたしたかのようだ。ところが、じっさいに弾いてみると……

かつての深みのある音が決定的に失われて、安物のアンプで鳴らしたエレキベースのような音になってしまった。各弦の音のバランスもよくない。これはどういうことだろうか。

楽器というものは、ちょっとした調整の違いで、音が大幅に変る。もちろんよい方に変るのなら、何の問題もないが、わるい方に変るのは困る。

今回の調整では、弦高を下げたのと、指版を削ったのが決定的な要因だったのではないか。もともと私の楽器は19世紀のもので、根本的な作りが現代のものと異なっている。それは弦高、指版の形状、駒のアールなどに顕著に現れている。もちろん弾きにくいのだが、それと引き換えに、すばらしく深みのある音色が出る。この音色に私は惚れたのだった。

仕上がったものはたしかに弾きやすいことは弾きやすい。これまで苦労したハイポジションもなめらかに弾ける。なによりも弾いていて疲れない。それは確かにすばらしいことだが、かつてのあの音色が失われたことが、どうにも心にひっかかる。

まあ、これまでも、弦を交換した直後は、音にひどく違和感をおぼえたものだ。もしかしたら、今の音にもそのうち慣れるのかもしれない。

というわけで、しばらくは様子をみようと思う。

ジャン・ジュネ『愛の唄』

ジャン・ジュネが1950年に作った映画『愛の唄』を見る。プライベートフィルムというのでもなく、かといって一般公開を意図していたとも思えない、ふしぎな映画。



感想はといえば、これは三島由紀夫が喜びそうな映画だな、というに尽きる。三島が喜びそうというより、これは彼のようなタイプの人間に見せるように作られた映画であって、けっして一般向きではないのだ。

私はジュネの本は一冊も読んだことがない。にもかかわらず、ジュネの世界というのは、なんとなく感覚的にわかってしまう。それが正鵠を射ているかどうかはべつとして、『愛の唄』は私の考えるジュネの世界をみごとに映像化しているように思った。

題名にある「愛」とはもちろん男子の同性愛であり、それを目で見る「唄」として歌い上げたのがこの作品だ。ここにはセリフはいっさいなく、物語性もないが、ポエジーの含有度はきわめて高い。

見る人が見れば傑作であろう。私は二度と見たくないが。

「ウイルス=悪霊」説

いつだったか、だれかのブログで「ハウスダストには悪霊が棲む」というような記述を見出して、なるほどなと思った。そのブログはおそらくオカルトや風水の見地から、掃除をすることの重要性を解いていたんだと思うが、私はオカルトとはべつに、もっと形而下のことを考えた。

そもそも悪を形而上、形而下の両面から考えると、形而上の面では良心の問題に行きつく。これは宗教や哲学が扱うべき領域だ。それとともに、形而下の面でいえば、端的に「病気」ということになるだろう。病気、さらにその延長線上の死こそが、形而下における悪なのである。

そう考えてくると、形而下においては、病気や死をもたらすものこそが「悪魔」だということになる。それとあわせて考えるべきは、悪魔、悪霊がたいてい複数形で表されていることだ。聖書に出る悪魔は、「わが名はレギオン、われら数多ければなり」と言っている。ベールゼブブは蠅の王といわれるが、これも密集した蠅に悪魔的なものを見出した古代人の想像から生まれた名前だろう。ドストエフスキーの『悪霊』にいたっては、セクトという集団を抜きにしては悪が顕在化してこない。

というわけで、古人の考えた悪魔、悪霊が、われわれに害をもたらす目に見えぬものの集合、というものだとすると、「ハウスダスト=悪霊」説にもそれなりの根拠がありそうな気がしてくる。そして、それを敷衍すれば、こんにちにおける悪魔は、細菌やウイルスだということになるだろう。

かつてヨーロッパには悪魔学というものがあった。悪魔という敵を知り、粉砕するための虎の巻のようなものだ。こんにちでは、細菌学やウイルス学がそれにあたるだろう。病や死と闘う最前線にいるのが医者だとすれば、昔の著名な悪魔学者に医者が多かったのも頷ける。

今回のウイルス騒ぎも、ただやみくもに怖がるだけでは能がない。われわれもひとつ、昔の悪魔学者になったような気分で、ウイルスについて調べてみてはどうか。敵を知り、己を知らば、百戦危うからず、とはこの場合にもいえることだろう。

幺微体

新型ウイルスが猛威を揮っているというので、連日報道がある。ヒアリのときでもそうだが、水際作戦なんてうまくいくわけがない。ちょっとした隙からいくらでも入ってくる。とくに日本のような、おめでたい国ではね。

まあそれはそれとして、そういえばバクテリアを歌った詩人がいたっけ、と考えていたら、「幺微体」という言葉が思い浮んできた。進化の頂点に位置しているとみずから思い、万物の霊長なりとふんぞりかえっている人類が、とるにもたらぬ幺微体のためにばったばったと倒されていくのは、皮肉以外の何物でもない。私が神なら、いいぞ、もっとやれ、とけしかけているところだ。

まあ、自分のことを考えても、肺炎で死ぬのはわるくないな、と思う。どうせなにかで死ななければならないのなら、肺炎というのは望ましいものの上位に入ってくる。死期を意識しながら、ある程度の苦痛を味わい、そう長く闘病することもなく、衰弱の果てに死ぬ、というのは理想に近い。

だからといって、新型ウイルスよ、おれのところにこい、と双手をひろげて歓迎するわけではないが。

ボーディル・ヨーンスンのこと

自分のはてブを見直していたら、ボディル・ヨエンセンという人に関する(?)記事が目についた。その記事はもう読めなくなっているが、「動物愛好家、閲覧注意」という自分のコメントにはちょっと興味がわく。いったい、ヨエンセンとは何者か。

ボディル・ヨエンセンで検索してもなにも出てこないので、ためしに Bodil Joensen で検索したら、すぐに出てきた。そして、この人の動物愛好というのは、いわゆる動物愛護とはちょっと趣を異にしたものであることもわかった。ちなみにこの名前は、正しく表記するならば、ボーディル・ヨーンスンとなるようだ。

ウィキペディアで読む彼女の生涯のあらましは悲劇的だ。なんでこうなってしまったのか、と思うが、それでもいっときは斯界の頂点に君臨したことが彼女の器量を物語る。


Bodil Joensen - Wikipedia


彼女の残した数々の映像や画像は、その気になればいくらでも見ることができる。しかし、先のウィキペディアの記事にしてもそうだが、そういったものがすべて白日のもとにさらされていることに、ネット時代の残酷さを感じる。1971年に生れたという彼女の娘は、こういった事実をどう受け止めているのだろうか。