そぞろごと

本、鉱物、音楽、etc.

外国の詩のわからなさ

この季節は落葉がすごい。掃いても掃いても追っつかない。道ばたに溜った落葉が風に舞うのを見ながら、ふとヴェルレーヌの「秋の歌」を思い出す。

これは上田敏の名訳によって日本でも広く知られている。私の母も、この詩と、カール・ブッセの「山のあなたの空遠く」はときどき口ずさんでいた。

おおげさにいえば、上田敏の仕事で、こんにち目に見えるかたちで残っているのは、この二つの訳詩だけかもしれない。そのことを泉下の彼が知ったら、それこそ「色かへて涙ぐ」んでしまいそうだ。

ネットでこの詩に関する記事をみると、原詩よりもすぐれているとか、やっぱり原詩のほうが上だとか、誤訳だらけだとか、突飛なのになると、上田敏はフランス語もドイツ語も知らなかったとか、てんでに勝手なことを書いている。柳村はゲーテファウストを第一部はドイツ語で、第二部は英訳で読んだ、と正直に書くほどの人だから、ドイツ語ができないどころの話ではない。フランス語はいうもさらなり。

まあそれはそれとして、原詩と訳詩とどっちがすぐれているか。これはおもしろい問題だが、その前に、まず日本人で原詩を読んで、ちゃんとよさが分る人がどれだけいるだろうか。

自分のことをいえば、この詩は原詩も訳詩も暗誦できるが、私が朗読したものをフランス人に聞かせれば、ずいぶん変な詩の読み方だと思われるに違いない。われわれはこの詩をそんなふうには読まない、そんなふうに読んだら、せっかくの詩が台無しになる、というのがそのフランス人の意見ではないか。

なぜそう思うのかといえば、動画サイトなどで視聴する、フランス人によるこの詩の読み方が、およそ自分の読み方とはかけ離れているからだ。かれらの読む「秋の歌」は、私の耳にはまったく詩には聞こえないのである。意味をとることはできても、そこに「音楽」を感じ取ることができない。つまるところ、耳で聞くかぎり、そこらへんの新聞雑誌の記事と、ヴェルレーヌの詩とは、ほとんど違いが感じられないのだ。

なるほど字をみれば、音綴数も韻も明瞭だが、それがじっさいにどう響くのかを体で感じ取ることができない以上、原詩は「わからない」としておくのが誠実な態度だと思う。だから、原詩と訳詩とどっちがすぐれているかは、いわゆるバイリンガルの人にしかわからない、ということになるだろう。

「外国の詩は原語で読まないとほんとのところはわからない」という意見がある。これはもちろん正しいと思うが、原語で読んだところで、「ほんとのところはわからない」ことに変りはないのだ。

ピエール・ルイスは下司なやつ

ピエール・ルイス(正しくはルイ)を主人公にした映画が出たらしい。なんでいまごろ?

このルイスなる作家には典雅な作品もあるが、気が狂っているとしか思えないものも多い。そんな彼の狂文を、『十二ダースの対話』からサンプル的に紹介しよう。内容に沿って(?)関西弁で訳してみる。


「なあ、あんた、ちょっとうんこしてみ」
「寝床の上はあかんやろ」
「かまへんて。寝床の上でも、うちの枕の上でも。うちうんこめっちゃ好きやねん。うんこに頬っぺたくっつけて、うんこまみれで寝てみたいわ」
「ほな、やらかいやつするわ。これ予告な……」
「ええよ。髪の毛にいっぱい塗りたくったんねん」
「こんなかっこでええかな」
「もうちょい前かがみになりいや。あんたがするとこ、よう見えるようにな。いやあ、なんちゅうきれいなお尻の穴や」
「ちょっと舐めてんか」
「うん……うん……さ、うんこしい」
「Madame est servie」
「Dieu! ...」
「うち、うんこしてたらイキそうになんねん、わからんやろけどな」
「ほれ、あんたのしたやつや、見てみ」
「ちょっとそれ食べてみてえな。あんたがうちのこと好きかどうかわかるさかい」
「そら、好きにきまってるやん。ほれ見てみ、口のなか、うんこだらけや」
「さっき言うてたみたいに、髪の毛に塗ってえや」
「これでこすって、のばして、と。腋の下にもつけよ」
「うわあ、めっちゃうんこくさいやん。あんたほんますごいわ」

二人のプリュドム

prudhommerie とか prudhommesque とかいう言葉があって、いずれも Prudhomme(人名)に由来する。意味は、くだらないことを勿体ぶってしゃべる、ということで、そんな言葉の語源になったプリュドム氏というのは、いつしか私にとって俗物のひとつの典型になってしまっていた。

それはそれでまちがってはいない。けれども、おかげでプリュドムには(少なくとも)二人がいることをすっかり見落していた。

ひとりは俗物の(しかも架空の)ジョゼフ・プリュドム。もうひとりはりっぱな詩人のシュリー・プリュドム。

ジュアンの評伝でヴァン・レルベルグが若いころプリュドムの詩集に読み耽っていたことを知ったときも、私の頭には俗物プリュドムのことしかなかったので、じつに意外な取り合わせだな、と思うばかりだった。これはもちろんシュリーのほうで、シュリーがどれだけ偉い詩人だったかは、初のノーベル文学賞が彼に与えられたことからもその一斑が知れる。

おのおののプリュドムについてはネットで調べられるから精しくは書かないが、シュリーは姓がプリュドムだったために不当に軽視されているのではないかと思う。少なくとも日本でフランス文学をかじっただけの人は、「プリュドム? ああ、あの俗物のことね」と確かめもせずにすましてしまう傾向があるのではないか。

ジョゼフ・プリュドムは生みの親のアンリ・モニエを食ってしまっただけでなく、日本では赤の他人のシュリー・プリュドムをも食ってしまったようにみえなくもない。

最後にシュリーの詩をひとつ。


こわれた花瓶

美女ざくらの花がしおれています。
花瓶に扇があたって罅が入ったのです。
ほんのわずか擦っただけのことです。
音ひとつ、しませんでした。

しかし、罅はよしわずかでも、
日ごと切子ガラスに食い入って、
目にもとまらぬうちにじりじりと、
花瓶を一とめぐりしたのです。

花瓶の水が逃げました、しとしとと、
そして花の水気が尽きました。
まだだれひとりそれに気づきません。
さわらないでください。こわれています。

美しい人の手が心をかすめて、
傷づけることもよくあることです。
そのうちに、心はしぜんひびわれて、
愛情の花が枯れるのです。

いつも人目につかずにいることですが、
細かくても深いその傷がじりじりと、
しみるつらさに心は忍び泣くでしょう。
こわれています。さわらないでください。

内藤濯訳)

パッサン・コンシデラブル(途轍もない通行人)

ランボーランボー
アル中のランボー
へんてこな
やつ

これ、元ネタわかる人、いるかなあ……

いずれにしても、こんな歌(?)を口ずさみつつ、ランボーに親しんだのは、高校一年のころだった。好きだったのは、創元選書の小林秀雄の訳本で、これには小林のランボー論が三つついていた。その起爆力ときたら……

小林は、「自分は数年間、ランボーという『事件』のただなかにいた」と書いている。私は、その小林によって、やはりランボーという「事件」を生きた。ただし、それはたぶん一年くらいしか続かなかったように思う。おそらく、並行して読んだ他の訳詩集、堀口大学のものや金子光晴、それに古くは上田敏永井荷風のもので、小林訳のランボー像が曖昧になるにつれ、関心も失せていったらしい。それに、そのころはほかにやることが多すぎた。ランボーは、私の青春をあっという間に駆け抜けていった。それはおそらく多くの人に共通した体験だったと思う。

それからウン十年。たまたま読んでいた本にランボーのことが書いてあって、そういえば、大昔にいっとき熱中したな、と思い、なにかうちに読むものはないかと探してみたら、金子光晴訳の詩集が見つかった。で、それを読んでみたのだが、これにはちょっと参ってしまった。

そこに収められているのは、主として子供のころに書いた韻文詩なのだが、自分自身もまだ子供だった高校のころには分らなかったランボーのよさが、いまになってしみじみと感じられる。なんというしなやかな、みずみずしい感性だろう。

最近のランボー事情はどうなっているのかと、アマゾンを見ると、私の知らない新訳がいくつも出ている。ランボーの人気はいまだに衰えていないようだ。よかった、と嬉しくなる。そりゃそうだよな、こんな子供、そうざらにいるもんじゃないぞ、と。

そのなかに、中原中也の『ランボオ詩集』が、岩波文庫で出ていたことを知った。こんなのが、と驚きつつ、注文して、それがいま私の手元にある。

冒頭に、「学校時代の詩」というのが置かれていて、その最初の「春であつた」で始まる詩を読んでみた。

これがまたしても私をひどく感心させた。これまさに一篇の象徴詩だ。しかも、これを書いたとき、ランボーはまだ14歳だったとある。私の知るかぎり、ランボーは15歳くらいから詩を書き始めたんじゃなかったっけ。

そこで調べてみると、この「学生時代の詩」というのは、5篇がすべて学校の課題詩で、いずれもラテン語で書かれたものだった。フランスの中学生が書くラテン詩というのは、日本でいえば漢詩みたいなものか。とにかく約束事が多いうえに、古典語がまためんどくさい。いちおう詩の体をなすだけでも大変なのに、ランボー少年はそこにポエジーを吹き込んでいるのだ。

というわけで、またしてもこのパッサン・コンシデラブルは私を打ちのめすのだった。


ランボオ詩集 (岩波文庫)

ランボオ詩集 (岩波文庫)

三昧という言葉

今日メールを見ると、『井筒俊彦ざんまい』という本の紹介があった。なるほどそんなものが出たか、と思うだけだが、その「ざんまい」という言葉にちょっと引っかかった。どうも、私の語感では、「ざんまい」というのは軽く響くのである。なんとかざんまいというのに、ろくなものはない、というのが私の印象だ。

そこでふと思い出したのは、ウィーンのシュニッツラーが書いた、『恋愛三昧』という戯曲だ。私も題名だけは前から知っているが、読んだことはない。これもやっぱり軽いお話なんだろうか。題名からすれば、そんな気もするが。

本はうちにあったので、それを取り出して読んでみた。人妻と恋愛関係にある青年が、自分を本気で慕ってくる女をおもちゃにしたあげく、人妻の夫に決闘で殺される話。

題名の、恋愛三昧というのは、こういう二股をかけた男のことを言っているのだろうか? たぶんそうではない。これは、報われない一途な愛を不実な男に捧げる、けなげな少女のことだろう。

ドイツ文学で私の知っている範囲でいえば、ゲーテのグレートヘンとか、クライストのケートヒェンとか、ああいう愛のありかたが、シュニッツラーのいう「恋愛三昧」であろう。そうすると、三昧というのは気楽な遊戯気分とかそんなものではなく、誠心誠意、ひたすら打ちこむという、そういう気合の言葉と受け取れる。

三昧というのは、もとは仏教語である。うわついた気分とは本来無縁なのは、当然のことなのだ。


     * * *


『恋愛三昧』からいくつかメモ。


「女なんてものは気晴しだよ」(p.249)

「女なんてものは陽気に人間らしくさえしていれば、それで幸福を感じているもんだよ。何も強いて我我が、無理やりに悪魔や天使にしなくったっていいじゃないか」(p.249)

「僕等は愛している女を憎んで、どうでもいい女を愛すんだからなあ」(p.258)

「ミチイ、もうそんな事云うのは今日だけ勘弁して頂戴、あたしもう堪らないんだから」(p.281)

「しかし、たとえ今という今だけの瞬間でも、そこに永久の匂いが漂う事はあるだろう。それが僕らの理解する事の出来る唯一つのものだ。僕らの物になってくれる唯一つのものだ」(p.285)