そぞろごと

退嬰老人日記

コロナコロナはもう飽きた

うん、もうたいていの人が飽き飽きしているような気がする。だんだん感染者が増えつつあるというので、危機感をもってる人もいるようだが、そんなのはごく少数派だ。コロナなんて恐るるに足らん、とみんなうすうす感じてるんじゃないかな。

少なくとも私のまわりでは、本気でコロナを怖がっている人は一人もいない。どうしてこうなるかといえば、コロナが大した毒性をもっていなかったからだろう。もしエボラ出血熱くらいの毒性があったら、みんな躍起になって封じ込めをしたに違いないし、それなりの成果は出ただろう。なにしろ罹ったら命取りとあっては、みんな必死になるよね。

それにくらべてコロナなんか、罹っても発症しない人もいるようだし、たぶん自然に治ってしまう人も少なくない。おそらくだが、来年にはただの風邪レベルにまで下ってるんじゃないかと思う。

老人が重篤化しやすいというが、それは風邪やインフルエンザでも同じこと。後遺症の有無なんて、この時点でわかるはずない。くだらないデマをとばして危機感を煽るのはいい加減やめてもらいたい。やめてもらいたいなんて言わなくても、もうだれもまともに取り合ってはいないが。

都知事にしろ、首相にしろ、もうコロナにはうんざりといった心情が透けて見える。はっきりいえば、飽きたのだ。そんなことにかかずらっている暇はないよ、とね。

そもそも、この時期にまだマスクをしているなんて、ばかげていると思いませんか?

といいつつ、私もまだマスクを外す勇気はもてないが。

羽仁進『初恋:地獄篇』

この映画では、寺山修司は名前を貸しただけで、製作にはいっさい関っていないと羽仁進が言ったそうだが、それはたぶん嘘だと思う。というのも、ここには寺山的なものが少なからず散見するからだ。ただしそれはほんの味付け程度にとどまっている。そして、それはこの映画にとっては幸いなことだった。

前に見たときは、テレビの深夜枠で、途中からなんとなく見ていただけだから、話の筋などはよくわからなかった。今回改めて見て、なるほどそういう話だったのか、とようやく納得がいった。ひとことでいえば、獲得された正常性が、生得的な倒錯の側から復讐される話。

一種の精神分析映画とみることもできるが、とくに理屈っぽいわけでもなく、謎解きの要素があるわけでもない。この映画の一種異様なムードを醸成しているのは、随所に盛り込まれた性的な暗示のあれやこれやだ。そういったものに感受性のある人間にはおもしろく見られるし、そうでない人間には退屈な作品でしかないだろう。

私はといえば、かつてはそういう感受性をもっていた。だから、テレビで断片的に見ただけで、この映画の本質的なところをつかむことができた。ところが、歳月とともにリビドーが痩せ枯れてしまった現在の私には、もうかつての隠花植物のような、じくじくと湧き出すような心の疼きを感じ取る能力が失われてしまっている。

というわけで、私にはもう今生では経験できない、青春のみずみずしさのみがまばゆく映った作品だったが、それはそれでよかったと思っている。



初恋・地獄篇 [DVD]

初恋・地獄篇 [DVD]

  • 発売日: 2019/02/13
  • メディア: DVD

顔のシンメトリーは精神のバランスのあらわれか?

凶悪事件の容疑者の顔写真を見ていつも思うのは、左右非対称の顔が多いな、ということだ。今回のボウガン男もしかり。やはりシンメトリーを欠いた顔というのは、精神的にもバランスが崩れているとみていいのだろうか。

何年か前に、ベトナム人の女児が強姦されて殺された事件があった。そのとき、牧逸馬の「双面獣」を思い出す、とミクシィのつぶやきに書いていた人がいて、私は思わず膝を打った。

「双面獣」というのは、1928年に起ったドロシイ殺しを扱った読物だが、その下手人であるアドルフ・ホテリング(Adolph Hotelling)の顔について、下記のような興味深い記述がある。


Adolph Hotelling


これなんかは、まあ極端な例だと思うが、最近報道される凶悪事件の犯人の顔も、たいてい左右非対称であることが気になっていたので、仮説のつもりで出しておく。

このことに関連してひとつ思い出すのは、アイドル歌手の桜田淳子だ。彼女の顔が左右非対称であることに、私は子供のころから気づいていた。顔立ちがきれいなだけに、これが残念でならなかったが、後年なにやら怪しげな宗教にかかわったことからしても、やはり精神的にバランスがとれていなかったのではないか、と今にして思う。

Bassesse oblige

ノブレス・オブリージュという言葉がある。分ったような分らないような言葉だが、もし私の理解が正しいとすれば、それと対になるような表現も成り立つのではないかと思う。つまり、ノブレスの対であるところのバセス(bassesse, 卑賤)もまたなんらかのかたちでオブリジェするのではないか、と。

この世には底辺と呼ばれる人々がいる。文字通り、社会の最底辺を支えている人々だ。かくいう私もその底辺に位置する人間であって、とても他人ごとではないのだが、そういう人々にあって卑賤、バセスはなにをオブリジェするか。

それは社会的な地位の低さそのままに、己を低くして、人には丁寧に接し、礼儀作法や言葉づかいに気をつけることである。変に世をすねることをせず、また世に阿らず、現実をありのままに受け入れて、つねに明るい気持を忘れないことである。ルサンチマンをこじらせたり、劣等感ゆえの反逆に走ったりしないことである。……

と書いてきて、ふと似たようなことをだれかが書いていたな、と気がついた。そう、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」である。あの詩は、私の考えるバセス・オブリージュをみごとに歌い上げたものだったのだ。

ノブレスのほうは偉い人々にまかせよう。われわれは下の方から、世の中を少しでも住みやすいものにする努力をしていこう。

筋トレなるものあらずや

これをなすは、なおやむにまされり。

というわけで、自粛生活における静かなブームに筋トレがあったらしい。なるほど、これならとくに道具もいらず、自宅で手軽にできる。そこで私もブームにのって、腕立てから始めてみることにした。

動画サイトを見ると、プランシェとかいう、体操選手まがいの技や、ストリート・ワークアウトという、近所の公園でやるようなメニューも紹介されている。腕立て腹筋の彼方に、こういう世界が展けているかと思うと、いやがうえにもモチベーションは高まってくる。いやはや、すばらしきかな、肉体の世界……

ところが、である。始めて一週間ほど経ったころ、違和感に気づいた。なんというか、筋肉が増強されたという感じがほとんどなくて、逆に体の節々が微妙に痛い。このまま続けていると、体を壊してしまうのではないか、という不安が頭をよぎる。

おそらく、老化した肉体というものは、若いころとは違って、無理がまったくきかないのである。無理をすれば、体が壊れてしまうのだ。そして、ある程度の無理をしなければ筋肉が増強しないのであれば、筋トレは若者限定ということになるだろう。

そりゃそうだよな、と思う。杖をついてよぼよぼ歩いているような老人に、腕立てや腹筋をしろというのはどだい無理な話なのだ。

同じことは、肉体面のみならず精神面にもいえるだろう。精神的な鍛練、たとえばイグナチオの「霊操」のようなのが無理なのは当然だが、たとえば日ごろの読書においても、めんどくさそうな本はつい敬遠してしまう。これなんかは、こらえ性がなくなったことの、顕著な徴だろう。けっきょくのところ、無理がきかなくなるというのは、そこで進歩が止まってしまうということだから、老人が日に日に阿呆になっていくのはやむをえざる仕儀なのである。

さて、それではどうすればいいか?

ほんとに、どうすればいいんでしょうねえ……