そぞろごと

本、鉱物、音楽、etc.

フラットピッカーのためのギター講座(その2)

みなさま、(その1)は楽しんでもらえましたでしょうか? といっても、訪問者ゼロでは質問自体意味をなさないが……

まあ、読んでもらえるかどうかはともかく、好きなことを好きなように好きなだけ書く、というのが本ブログの基本方針なので、臆面もなく(その2)を書くことにする。


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楽器を始めたからには、できるようになりたい。それはだれもが思うことだ。しかし、ギターができる、弾けるようになる、とはどういうことか、考えてみたことがありますか?

自分なりの答えを出しておくと、たとえば人に「何か弾いてみてください」といわれて、「はい」とギターを手に取り、相手になんらかの満足を与えるような演奏ができれば、それが「ギターが弾ける」状態だと考える。

「私は人の評価なんぞはどうでもいい。自分が納得できるレベルに達しているかどうか、それが問題なんだ」

そうおっしゃる方もいるでしょう。たしかに、趣味でやっている以上、自分が楽しむことは大事だが、他人をも楽しませることができなければ、どこまで行っても自己満足でしかない。芸術にしろ芸能にしろ芸事にしろ、芸と名のつくかぎりは、「人を楽しませてなんぼ」なのである。

そこで問題になってくるのが、表現者としての器量だ。

この場合の器量というのは、イタリア語のヴィルトゥ(virtù)をさす。ヴィルトゥのない人は、どんなに指が器用に動いても、表現者としては失格なのである。それは演奏の質を背後から支える「徳」であって、このヴィルトゥを豊富にもっている人物をさして、「ヴィルトゥオーソ」と人は呼ぶのだ。

そこで、演奏者としては、この器量を培うことがなにより大事なのだが、じつをいえば、この器量なるものは、先天的な素質であって、後天的に培うことがほぼ不可能なのである。

これはかなり厳しい現実だが、わわわれとしては、そのことは重々承知のうえで、なおかつこの「器量」を培うためにはどうすればいいか、を考えていかねばならない。なにしろ、そこのところをクリアにしておかないと、本来は先へ進めないのだ。

そのためには、とりあえず楽器は置いといて、他人を前にしたとき、自己をどのように表現するか、どれだけ相手を自分のフィールドに引っ張り込めるか、を考えるべきだ。つまり、自分というものを、他人に対して閉じるのではなく、どこまでも開いていかなければならないのである。

一流の演奏家は、こういう駈け引きに長けた人ばかりだ。変人といわれるグレン・グールドのような人も例外ではない。かれの指の動きが、いかに雄弁にグールドその人を語っているか、残されたビデオを見れば一目瞭然であろう。


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というわけで、楽器の演奏以前に自己表現の方法を確立すべきなのだが、それは日常の言動で身につけてもらうとして、あくまでもギター演奏にかぎっていえば、とにかく自分の「器量」を客観的に把握することが大事だ。具体的には、弾いたものを録音して、注意深く聞き直してみる。鏡を前にして弾いてみて、演奏フォームや表情をチェックする。できればビデオに撮ってみる、など。

そんなめんどくさいことをするくらいなら、自己満足でいいや、と思う人もいるだろう。自分もじつは、どっちかといえばその部類なのだが、それではいつまでたってもいっしょなので、自己批判も加えて、こういう記事を書いてみた。参考になれば幸いです。

エドガー・ポーの世界

お盆といえばやはり怪談物ですよね。うちにも怪談と名のつく本はある。昔買った、古ぼけた全集の端本。それを開いて読んでみると──

これが意外におもしろい。思わず釣り込まれるが、その話は後回しにしよう。


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西洋怪談といえば、エドガー・ポーと相場はきまっている。その歴史は長い。なにしろポーが最初に紹介されたのは明治20年、つまり1887年のことなのである。

饗庭篁村による「黒猫」は明治時代らしい大らかな訳文で、原文とかけ離れているところにも味がある。

多くの飼物のうち如何いふ訳か私ハ一番此猫が可愛くて朋友よりも睦じくし食物も人の手を借らずに是だけは自分で養うほど。プルトウも又私の跡を慕ひ外から戻れバ遠くより足音を聞て走ツて来る。夫ゆゑ家へ帰ツて上り段で最初私しの眼につくものは何時も此の黒天鵞絨の愛敬袋であツた……


そのポーの、怪談の代表作である「アッシャー家の崩壊」を大胆に翻案したジャン・エプスタンのサイレント映画がある。「アッシャー家の末裔」という題で、youtube でも視聴できるが、小さい画面では肝心な情報を見落としてしまうので、これはちゃんとしたDVDで見たほうがいい。


アッシャー家の末裔《IVC BEST SELECTION》 [DVD]

アッシャー家の末裔《IVC BEST SELECTION》 [DVD]


このエプスタンの映画でちょっと面食らうのは、これが怪奇映画でありながら、ひとりの犠牲者も出ることなく、ハッピーエンドで終っていることだろう。主人公二人が死んでしまう原作とは大違いだ。

原作では兄妹間の近親相姦がほのめかされていたが、この映画ではむしろ母子相姦ともいうべきものがほのめかされている。というのも、ロデリックの妻のマデラインは、先代の妻、つまり自分の母の生まれ変わりなのだ。なぜそれが分るかというと、先代の妻の肖像画に Ligeia と銘があって、ポーの「リジイア」を知っていれば、なるほどそういことか、と納得が行くのである。

こういう観点からすると、アッシャー家の呪いというのは、主人公が自分の母を妻にしているというエディプス的状況に由来するもので、火災によってアッシャー家のすべてが灰燼に帰したとき、主人公(たち)はようやく積年の呪いから解放されるのである。

この映画のすばらしいところは、原作でロデリックが描くことになっている絵の情景が、そのままセットに活かされていることだ。あの異様な室内空間の秘密が知りたかったら、原文を見ればいい。私見によれば、そこにはおそらくピラネージの描く「牢獄」シリーズも影を落としている。


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ところで、このポーの短篇をドビュッシーがオペラに仕立てようとして果たさず、未完のまま終ってしまったことはよく知られている。私はプレートルの指揮するCDでその復元された部分の録音を聴いていたが、フランス語の台詞が聞き取れないので、何がどうなっているのかさっぱり分らなかった。

ネットを見ると、その問題作の「試補筆版」が、青柳いづみこさんのプロデュースによって実現したとある。youtube にあがっている動画を見て、私は驚いてしまった。ちゃんと字幕があって歌の内容がわかるし、なによりもピアノ伴奏と、歌手たちがすばらしい。まったく危なげのない歌唱で、外人に見せても恥ずかしくない出来だ。

バリトン三人にソプラノ一人、しかもソプラノの出番がほとんどないので、一般的にはちょっと厳しいものがあるだろう。しかし私には、長いこと気になっていた曲だけに、りっぱな演奏で聴かせてもらえたのは非常にありがたかった。


フラットピッカーのためのギター講座(その1)

昨年6月にギターを手にして、すでに1年と2ヶ月が過ぎた。この間、自分なりにいろいろと工夫してみて、もしかしたら他人にも役立つのでは? と思われるような練習方法をいくつか見つけた。

そういったことについて、不定期で書いてみたい。

ひとつ但し書をつけるとすれば、「フラットピッカーのための」とあるように、ギターをフラットピックで弾く人を念頭に置いているので、指(爪)で弾く人や、弓でこする(?)人にはあまり役立たないと思われる。


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弦楽器にはプレクトラム弦楽器と呼ばれるものがある。指や爪ではなく、撥(プレクトラム)で弦をはじくもの。この撥の大小、形態は楽器によってさまざまだが、基本的に撥を使うことで、右手の動きを単純化できる。要するに、右手が簡単になるということだ。

その一方で、たとえば指弾きでは簡単にできるようなフレーズでも、ピックでは異様にむつかしくなることがある。当り前の話だが、右手の動きが単純なので、複雑なことをしようとすると、それだけ負担が大きくなるのである。

複雑なフレーズにピックでどう対応するか、それはまたあとで考えるとして、とりあえずピッキングの安定度を高めるためにどうすればいいかを考えてみよう。

フラットピックでギターを弾く人は、ほぼ全員が交互ピッキング(オルタネイト・ピッキングともいう)を使っていると思う。つまりピックの上下運動を交互に繰り返して弦をはじくやり方だ。

これが簡単なようでなかなかむつかしい。右手と左手の連動がうまく行かず、フレーズが安定しない人(自分も含めて)のために、私がお勧めするのは、アップピッキングだけでフレーズを弾く練習だ。

アップピッキング、つまり弦を下から上にはじく。これを一弦から六弦まで、均等に、芯のある音で弾きつづけることができるようになればOKだ。弾く曲はなんでもいい。スケール練習でもいいし、好きな曲があればそれを弾いてもいい。

初めは慣れなくて、まったくニュアンスの乏しい、気の抜けたような音しか出ないと思うが、やっているうちにだんだんコツがわかってくる。

アップピッキングだけである程度弾けるようになったら、元の交互ピッキングに戻してみるといい。自分のピッキング技術が飛躍的に向上していることに驚かれると思う。そのとき始めて、音楽的に音符を弾くというのがどういうことか、理解できるだろう。


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これは私がジョン・マクラフリンの動画を見てヒントを得たやり方なので、自分で勝手に編み出した練習方法ではない。もっとも、マクラフリン自身が意識的にこういうやり方をしているかどうか、それは知らない。ただ、自分でやってみて効果があったので、紹介してみた。参考になれば幸いです。


(参考動画。11:30~ くらいから始まるアコギの演奏)

井筒俊彦『意味の深みへ──東洋哲学の水位』

ときどきひどく分りにくい文を書く人がいる。いわゆる悪文家。もうちょっとわかりやすく書けませんかね、と文句のひとつもいいたくなるような人々だ。

井筒俊彦はその正反対だ。かれの書く文はすばらしく明快である。かれの本を読んでいると、こっちまで頭がよくなったかのような錯覚に陥ることがある。

しかし、私の思うのに、井筒はわかりやすい文しか書けない文筆家なのである。明晰にあらざるものは井筒的ではないのだ。それはもちろんわるいことではない。しかし、この点を無条件で称賛していいかどうか。


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井筒先生は国際的に認められた碩学だそうだ。この本にもジャック・デリダの先生宛の書簡が付録としてついているが、それを見ると、まさに叩頭の礼をつくさんばかりの丁寧な文面に驚く。

いったい井筒の何が、デリダのような海千山千の哲学者をここまでへりくだらせるのか。

それは、井筒がたんなる碩学ではなく、オカルティストであることによる。デリダをして畏敬せしめたのは、東洋の道士としての井筒の風格ではなかったか。

じっさいのところ、この本で展開されている思考はまぎれもない隠秘学であって、ときにトンデモの領域に近づく。井筒先生、勉強のしすぎで頭がおかしくなっちゃったんじゃないか、そう思う人がいてもふしぎはないような、かなりぶっとんだ説が述べられている。

そして、そのような先生の思考の運動が、デコンストリュクシオン(déconstruction = 脱構築、解体構築)というデリダの用語と重なり合いながら進むところが、本書の妙味である。何を解体するか、言語の表層を。何を構築するか。言語アラヤ識を。


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マルクスは世界の解釈ではなく、その変革を標榜したが、オカルティズムでは、世界の解釈と変革とはふたつのものではなく、ひとつの運動である。世界を解釈しなおすことが、世界を変革することなのである。この解釈と変革とを一直線につなぐための戦略が、さきにあげたデコンストリュクシオンだ。

もしそれがうまくいけば、この世の不条理に苦しんでいる人々にとっての福音となるだろう。じっさい、この本を読む限りにおいては、そのことは不可能ではないのだ。いま、ここで、この世界を楽園にするための条件は、ほぼ整っているのである。

しかし、もちろんそれはたやすい仕事ではない。にもかかわらず、先生の流麗な筆は、その難事をこともなげに語ってしまっているのだ。最初に書いた、わかりやすいことが無条件によいとはいえないというのは、こういう事態をさす。われわれは先生の文に乗せられて、かなり見晴らしのいい高所まで案内されるが、そこで不意に先生の声はとだえる。まわりを見渡しても、なにも支えになってくれるものはない。さてどうするか。

われわれはオカルティストとしての先生の幻術にかかったのである。


家庭小説

家庭小説というジャンルがある。正しくは「あった」というべきか。というのも、このジャンルの最盛期は明治・大正時代で、昭和に入るとともに衰退し、今ではもはやその影すら残っていないのだから。

しかしほんとうにそうか? たとえば、NHKで昔からやっている「連続テレビ小説」。あれなんかは、形を変えた家庭小説とはいえないだろうか?

あの手のテイストの物語が好きなら(日本人ならたいてい好きだと思うが)ぜひ明治・大正の家庭小説を手にとってご覧になることをお勧めする。現代の小説からは失われた、小説本来のおもしろさと、古きよき時代のノスタルジックな風俗とが同時に楽しめるから。

ただ、家庭小説といってもその数は厖大なので、どれから読んだらいいのか迷うだろう。そこで、参考になるかどうかわからないが、私がどういう順序で家庭小説に親しんできたかを、以下に簡単に記す。


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最初に手にしたのは小杉天外の『魔風恋風』。尊敬する某氏が読んでいたので真似をして読んだ。そのころはこれが家庭小説に分類されているとはつゆ知らず、ただもう夢中で話の筋を追っていた。ひとことでいえば活字で読むマンガ。

その次に読んだのが、名前だけはだれでも知っている尾崎紅葉の『金色夜叉』。これもひどくおもしろいが、残念ながら……

なにが残念なのかはいわないほうがいいと思うが、もしかしたら周知のことなのかもしれない。

この小説が連載されていたころは、文壇の名流婦人たちも夢中になっていて、彼女らはある日紅葉を取り囲んで、「あなた、お宮さんをどうなさるおつもり?」と詰め寄ったとかいう話もある。それほどの人気作だった。ひとことでいえば活字で読む映画(活動写真)。

これを読んでから、鴎外全集を引っぱり出して、かれの書いた当時の書評なんかを見ていた。鴎外はわりあい紅葉に同情的だ。それから日夏耿之介の評論で「明治煽情文芸概論」およびその続篇の「家庭文学の変遷及価値」というのがある。こういうもので変に知識がつくと、虚心に作品と向き合えないので、ぱらぱらと目を泳がせるようにして読んだが、たとえば家庭小説の下位区分として、

恋愛小説
立志美譚
滑稽小説
風刺小説
花柳小説
少年小説
少女小説
宗教小説
教訓小説

などを挙げてあるのは、是非はともかく着眼としてはおもしろい。

いずれにしても、この二作(天外と紅葉)で家庭小説というものに興味をもった私が次に買ったのが筑摩書房の全集の端本で、「明治家庭小説集」というもの。収録作は、

草村北星『浜子』
菊池幽芳『乳姉妹
田口掬汀『女夫波』
大倉桃郎『琵琶歌』

いずれも読み応えがあるが、『乳姉妹』があまりによすぎて他のものがかすんでしまう。これは無条件でおすすめだ。

その『乳姉妹』の著者である菊池幽芳の『己が罪』。これはおもしろさだけなら『罪と罰』に匹敵する。そのくらいの大傑作。

その次に買ったのが、これまた古い文学全集の端本で、改造社の「歴史・家庭小説集」というもの。歴史小説は飛ばして家庭小説だけあげると、

中村春雨『無花果
村井弦齋『小松嶋』

前者は迫害される美徳の話、後者は愛のすれ違いの話。どっちもおもしろいが、私は後者を推す。最後の場面などは、写実を通り越してシュルレアリスムすれすれまで行っている。


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このあたりまで攻めたところで、関心がコレクションに移ってしまい、読書には無縁の五年間をすごした。最近コレクションのほうが一段落ついたので、もう一度家庭小説を読んでみようという気になっている。本は何冊か買ってあるので、それを読めばいい。

ひとつ気づいたことをあげておくと、明治・大正のころに出たいわゆる発禁本(春本)、あれは広義の家庭小説といってもいいと思う。家庭小説は主人公がほぼ女性なので、そっち方面にシフトしていく可能性はつねに孕んでいるわけだ。海外でも『ファニー・ヒル』などは家庭小説の雰囲気が濃厚のような気がするが、どうか。