短小亭日乗

短くて小さい日記

リリアン・ギッシュ──永遠の相のもとに


日夏耿之介が大正十五年に書いた雑文「中世活動写真考」に、

『中世智慧の輪』の中から活動写真の項をしらべ出して研究して世間をあつと云はせんものと、……さて若し若しあつたとしたらばなんと思召す、イゾルデ姫にリリアン・ギッシュ見たやうな美女が扮し、強力ヘルキュレスにはカビリヤに出て来る大男見たよなのがあり、ニオベをメアリ・カア夫人がやつたやうな調子であれば、……


というくだりがある。どうも前後の文を読み合わせると、揶揄しているようにも読めるのだが、ここはやはりリリアン・ギッシュの美貌が日夏のような偏屈詩人の心をも捉えたと解釈しておきたい。

私がリリアン・ギッシュを知ったのは、淀川長治の対談集『映画千夜一夜』(1988年)においてだが、その後何本か彼女の出た映画を見たかぎりでいうと、内容としてはつまらないものが多いように思う。どうもアメリカ映画はサイレントには向いていないようだ。

しかし、映画がどんなにつまらなくとも、リリアン・ギッシュの存在感だけは否定のしようがない。彼女のまわりだけ後光がさしているようで、当時の観客は、映画を見に行くというより、リリアン・ギッシュを見に行くつもりで映画館に足を運んだのではないか。そして、彼女のこうした美質は映画のみならず、スチル写真、わけてもブロマイドにおいて真価を発揮する。


Tribute to the great Lillian Gish


彼女を見ていると、ゲーテの『ファウスト』末尾の「永遠に女性なるもの、われらを引きて往かしむ」という詩句を思い出さずにはいられない。

永遠に女性なるもの、それはたとえばダンテにおけるベアトリーチェであり、セルバンテスにおけるドルシネアであり、シェイクスピアにおけるコーデリアであり、ゲーテにおけるグレートヘンであり、ドストエフスキーにおけるソーニャである。

こういった系譜のハリウッドにおける現れが、リリアン・ギッシュであろうと私は思っている。


     * * *


いつだったか、古本屋のカタログを眺めていて、リリアン・ギッシュのブロマイド一括というのが売りに出ているのを発見した。これにはちょっと心が動いたが、ぐずぐずしているうちに売れてしまった。

もしかしたら、日夏耿之介もそんなブロマイドを一枚くらいはもっていたのかもしれないな、と思う。もちろんそれは『美の司祭』の著者の品位をなんら貶めるものではない。