短小亭日乗

短くて小さい日記

高山宏『夢十夜を十夜で』


高山先生が学生たちを相手に『夢十夜』の講義をした記録のようなもの。多少は編集されていると思うが、だいたいこんな感じで授業が進んだ、という雰囲気は伝わってくる。

最初のほうに、「この十篇を一貫してマニエリスムの文学とは何かを論じられることになれば最大の目的は達せられる」とある。そうそう、私たちが期待するのは、まさにこの路線なのだ。これでなくては、日本における汎マニエリスムのスポークスマンたる氏らしくない。

さて内容のほうはどうか。

まあ好みにもよると思うが、私はこの本を読んで『夢十夜』の理解が深まったとか、そういうことはいっさいなかった。『夢十夜』は子供のころに読んだままの、無垢な姿で今もある。

本書中、高山氏が言及している書物をあげると──


ジークムント・フロイト『機智論』
ロザリー・L・コリー『パラドクシア・エピデミカ』
ホーフシュテッター『象徴主義と世紀末芸術』
デズモンド・モリス『マンウォッチング』
ノースロップ・フライ『批評の解剖』
尹相仁『世紀末と漱石
キャロリン・マーチャント『自然の死』
ロンダ・シービンガー『植物と帝国』
ティーヴン・グリーンブラット『驚異と占有』
マリオ・プラーツ『肉体と死と悪魔』
バーバラ・M・スタフォード『エコー・オブジェクト』
アト・ド・フリース『イメージ・シンボル事典』
ウィリアム・エンプソン『牧歌の諸変奏』
芳川泰久漱石論──鏡あるいは夢の書法』
東雅夫遠野物語と怪談の時代』
ヴォルフガング・カイザー『グロテスクなもの』
ブラム・ダイクストラ『倒錯の偶像』
ミルチャ・エリアーデ『聖と俗』
大室幹雄囲碁の民話学』
山田晃『夢十夜参究』
フィリップ・アリエス『子供の誕生』
ハインリッヒ・ヴェルフリン『ルネサンスバロック』『美術史の基礎概念』
マックス・ドヴォルザーク『精神史としての美術史』
ウィリアム・ホガース『美の解析』
フレデリック・アンタル『ホガース』
フェルナン・アリン『宇宙の詩的構造』
ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』
石井研堂『明治事物起源』
ウィリアム・ウィルフォード『道化と笏杖』
漱石研究』誌、第八号、『夢十夜』特集
グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』
エドマンド・バーク『崇高と美の概念の起源の歴史的研究』
志賀重昂『日本風景論』
エルンスト・R・クルティウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』
ハーマン・メルヴィル『白鯨』『詐欺師』
アルトゥール・ショーペンハウエル『意志と表象としての世界』
萩原朔太郎猫町
マーティン・アダムズ『虚無 Nil
ラインハート・クーン『真昼の悪魔』
高山樗牛『厭世論』
松山巌『乱歩と東京』
ジョージ・バークリー『視覚新論』『人知原理論』
ミシェル・フーコー『言葉と物』
種村季弘『壺中天奇聞』
ヴァルター・ベンヤミン「パリ── 十九世紀の首都」
伊藤銀月『日本風景新論』


ざっとこんなところだ。こうしてみると、いかに高山氏が自分の座右の書を『夢十夜』という小さい世界に詰め込もうとしているか、手に取るようにわかるだろう。そして、本書の内容もだいたい見当がつくだろう。

しかし、『夢十夜』のほうでは、こうしてさんざんいじりまわされても、自身はいっこう無傷で、生れたままの無垢の姿を保っている。その勁さの前には、いかなる批評も無力だと思わせるに十分だ。


井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス──東洋哲学のために』


この本の巻末に添えられた司馬遼太郎との対談の中で、著者が「英独仏語なんぞは手ごたえがなさすぎて外国語をやってるという気がしない」と放言(?)しているのがおもしろかった。たしかに、そんなものは赤子の手をひねるようなものですよね。

しかし、この、抵抗感がないというのは、井筒先生の文章にもあてはまる。上に引いた文をそのまま使えば、「井筒の本なんぞは手ごたえがなさすぎて哲学書を読んでる気がしない」ということなるだろう。あんまり文章がうますぎるものだから、こっちはつい分ったような気になってしまうのだが、ほんとうのところはどうか。

そういう意味では、本書所収の「禅的意識のフィールド構造」はけっこうな手ごたえがあった。この前の記事に「コスモロジーモナドジーの交点」というようなことを書いたが、ここでは禅という地平においてその手の考察が展開されている。そして、ここには東洋哲学からあと一歩で西洋のほうに抜けてしまうという、ぎりぎりの局面があらわになっているように思う。

著者は I SEE THIS の SEE のはたらきを極限まで拡大して禅的意識のフィールド構造のモデルとする。この SEE は、西洋哲学で intuition(直観)といわれるものときわめて近いのではないか。

直観を介することで、禅でいうところの「無位の真人」とライプニッツモナドとが仲よく握手しているような、そんな光景が目に浮んでくる。

「ばかなことをいうな」と泉下の著者から痛棒を食らわされるだろうか。


サイモン・ミットン編『現代天文百科』


この前はてなブログで「乗り物」というお題が出たので、乗り物としての地球について書いた。それが機縁で宇宙関連の動画を見たりしているうちに、ふと思い出したのが、私が若いころ、本屋で手に取って思わず瞠目した大冊のことだ。それはたしか岩波書店から、1980年ごろに出た宇宙の本だった。そのころ、私の天体嗜好(?)を育んでくれたのは、ホルストの、というより富田勲の『惑星』と、カール・セーガンの『コスモス』だったが、そういう時期にあって、美しいイラスト満載の、ずっしりと手に重い大型本は私につよい印象を与えた。

ただ、値段が高くてとても手の出るものではなかった。私は本を棚に戻しながら、いつか古本で手に入れればいい、と自分に言い聞かせていた。

あれはいったい何という本だったのか? ネットで調べればすぐわかるだろう、と思って探してみたが、見つからない。いくら検索をかけても、それらしい本にかすりもしない。しまいには、私が本屋で見た本は幻だったのではないか、という疑念すらきざしてきた。

どうにも埒が明かないので、図書館で『岩波書店八十年』という目録を借り出して、1980年ごろの刊行物を調べてみると、あった、あった! S. ミットンの『現代天文百科』というもの。これに違いない。値段をみると、12,000円とある。そりゃ手が出なかったわけだ。



というわけで、ようやっと探し当てた『現代天文百科』だが、意外にタイトルが平凡なのに拍子抜けがした。だって、カール・セーガンの本でさえ『コスモス』なんていうしゃれた名前がついてるんですよ。もうちょっとなんとかならなかったのか、という気がする。

しかしそんなことよりも、この本が今や古書価で千円そこそこというのが驚きだ。この手の本が、いかに需要がないかが痛感される。たしかに、大型の紙の本など、場所ふさぎの邪魔物でしかないのかもしれないが……

私はもちろん買いましたよ。ネット古書で、1,000円のものを。……

「いつか古本で……」という、かつての私の願いはかなったことになる。しかし、あのころの大きかった夢がぺしゃんこになって返ってきたような、なんともいえない残念な気持ちだ。


     * * *


数日後に届いた本書を見ると、やはり時の経過というのは残酷なものだと思った。この本のいったい何が、かつての私を茫然自失たらしめたか、いまとなっては理解に苦しむ。上に「美しいイラスト満載」と書いたが、それも私の記憶違いで、イラストより本文のほうが圧倒的に多い。ひとことでいって「お勉強」用の本であり、興味本位でぱらぱら眺めて楽しめるような本ではない。

しかし翻って考えてみれば、そういう眺めて楽しむたぐいのものは動画サイトでいくらでも見られるのだから、こういう手堅い本で宇宙の仕組みを根本から知るのも別種の楽しみと思えばいい。

本書の内容は、広い意味での宇宙論コスモロジー)だと思う。かつてある詩人は「原子論的に宇宙を観照せよ」といった。私はこれを改変して、「宇宙論的に単子(モナド)を観照せよ」といいたい。コスモロジーモナドジーが交差する地平に身を置いてみよう。そこから何が見えるだろうか?

エドガー・ポーの世界


お盆といえばやはり怪談物ですよね。うちにも怪談と名のつく本はある。昔買った、古ぼけた全集の端本。それを開いて読んでみると──

これが意外におもしろい。思わず釣り込まれるが、その話は後回しにしよう。


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西洋怪談といえば、エドガー・ポーと相場はきまっている。その歴史は長い。なにしろポーが最初に紹介されたのは明治20年、つまり1887年のことなのである。

饗庭篁村による「黒猫」は明治時代らしい大らかな訳文で、原文とかけ離れているところにも味がある。

多くの飼物のうち如何いふ訳か私ハ一番此猫が可愛くて朋友よりも睦じくし食物も人の手を借らずに是だけは自分で養うほど。プルトウも又私の跡を慕ひ外から戻れバ遠くより足音を聞て走ツて来る。夫ゆゑ家へ帰ツて上り段で最初私しの眼につくものは何時も此の黒天鵞絨の愛敬袋であツた……


そのポーの、怪談の代表作である「アッシャー家の崩壊」を大胆に翻案したジャン・エプスタンのサイレント映画がある。「アッシャー家の末裔」という題で、youtube でも視聴できるが、小さい画面では肝心な情報を見落としてしまうので、これはちゃんとしたDVDで見たほうがいい。



このエプスタンの映画でちょっと面食らうのは、これが怪奇映画でありながら、ひとりの犠牲者も出ることなく、ハッピーエンドで終っていることだろう。主人公二人が死んでしまう原作とは大違いだ。

原作では兄妹間の近親相姦がほのめかされていたが、この映画ではむしろ母子相姦ともいうべきものがほのめかされている。というのも、ロデリックの妻のマデラインは、先代の妻、つまり自分の母の生まれ変わりなのだ。なぜそれが分るかというと、先代の妻の肖像画に Ligeia と銘があって、ポーの「リジイア」を知っていれば、なるほどそういことか、と納得が行くのである。

こういう観点からすると、アッシャー家の呪いというのは、主人公が自分の母を妻にしているというエディプス的状況に由来するもので、火災によってアッシャー家のすべてが灰燼に帰したとき、主人公(たち)はようやく積年の呪いから解放されるのである。

この映画のすばらしいところは、原作でロデリックが描くことになっている絵の情景が、そのままセットに活かされていることだ。あの異様な室内空間の秘密が知りたかったら、原文を見ればいい。私見によれば、そこにはおそらくピラネージの描く「牢獄」シリーズも影を落としている。


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ところで、このポーの短篇をドビュッシーがオペラに仕立てようとして果たさず、未完のまま終ってしまったことはよく知られている。私はプレートルの指揮するCDでその復元された部分の録音を聴いていたが、フランス語の台詞が聞き取れないので、何がどうなっているのかさっぱり分らなかった。

ネットを見ると、その問題作の「試補筆版」が、青柳いづみこさんのプロデュースによって実現したとある。youtube にあがっている動画を見て、私は驚いてしまった。ちゃんと字幕があって歌の内容がわかるし、なによりもピアノ伴奏と、歌手たちがすばらしい。まったく危なげのない歌唱で、外人に見せても恥ずかしくない出来だ。

バリトン三人にソプラノ一人、しかもソプラノの出番がほとんどないので、一般的にはちょっと厳しいものがあるだろう。しかし私には、長いこと気になっていた曲だけに、りっぱな演奏で聴かせてもらえたのは非常にありがたかった。


井筒俊彦『意味の深みへ──東洋哲学の水位』


ときどきひどく分りにくい文を書く人がいる。いわゆる悪文家。もうちょっとわかりやすく書けませんかね、と文句のひとつもいいたくなるような人々だ。

井筒俊彦はその正反対だ。かれの書く文はすばらしく明快である。かれの本を読んでいると、こっちまで頭がよくなったかのような錯覚に陥ることがある。

しかし、私の思うのに、井筒はわかりやすい文しか書けない文筆家なのである。明晰にあらざるものは井筒的ではないのだ。それはもちろんわるいことではない。しかし、この点を無条件で称賛していいかどうか。


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井筒先生は国際的に認められた碩学だそうだ。この本にもジャック・デリダの先生宛の書簡が付録としてついているが、それを見ると、まさに叩頭の礼をつくさんばかりの丁寧な文面に驚く。

いったい井筒の何が、デリダのような海千山千の哲学者をここまでへりくだらせるのか。

それは、井筒がたんなる碩学ではなく、オカルティストであることによる。デリダをして畏敬せしめたのは、東洋の道士としての井筒の風格ではなかったか。

じっさいのところ、この本で展開されている思考はまぎれもない隠秘学であって、ときにトンデモの領域に近づく。井筒先生、勉強のしすぎで頭がおかしくなっちゃったんじゃないか、そう思う人がいてもふしぎはないような、かなりぶっとんだ説が述べられている。

そして、そのような先生の思考の運動が、デコンストリュクシオン(déconstruction = 脱構築、解体構築)というデリダの用語と重なり合いながら進むところが、本書の妙味である。何を解体するか、言語の表層を。何を構築するか。言語アラヤ識を。


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マルクスは世界の解釈ではなく、その変革を標榜したが、オカルティズムでは、世界の解釈と変革とはふたつのものではなく、ひとつの運動である。世界を解釈しなおすことが、世界を変革することなのである。この解釈と変革とを一直線につなぐための戦略が、さきにあげたデコンストリュクシオンだ。

もしそれがうまくいけば、この世の不条理に苦しんでいる人々にとっての福音となるだろう。じっさい、この本を読む限りにおいては、そのことは不可能ではないのだ。いま、ここで、この世界を楽園にするための条件は、ほぼ整っているのである。

しかし、もちろんそれはたやすい仕事ではない。にもかかわらず、先生の流麗な筆は、その難事をこともなげに語ってしまっているのだ。最初に書いた、わかりやすいことが無条件によいとはいえないというのは、こういう事態をさす。われわれは先生の文に乗せられて、かなり見晴らしのいい高所まで案内されるが、そこで不意に先生の声はとだえる。まわりを見渡しても、なにも支えになってくれるものはない。さてどうするか。

われわれはオカルティストとしての先生の幻術にかかったのである。