短小亭日乗

短くて小さい日記

井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス──東洋哲学のために』


この本の巻末に添えられた司馬遼太郎との対談の中で、著者が「英独仏語なんぞは手ごたえがなさすぎて外国語をやってるという気がしない」と放言(?)しているのがおもしろかった。たしかに、そんなものは赤子の手をひねるようなものですよね。

しかし、この、抵抗感がないというのは、井筒先生の文章にもあてはまる。上に引いた文をそのまま使えば、「井筒の本なんぞは手ごたえがなさすぎて哲学書を読んでる気がしない」ということなるだろう。あんまり文章がうますぎるものだから、こっちはつい分ったような気になってしまうのだが、ほんとうのところはどうか。

そういう意味では、本書所収の「禅的意識のフィールド構造」はけっこうな手ごたえがあった。この前の記事に「コスモロジーモナドジーの交点」というようなことを書いたが、ここでは禅という地平においてその手の考察が展開されている。そして、ここには東洋哲学からあと一歩で西洋のほうに抜けてしまうという、ぎりぎりの局面があらわになっているように思う。

著者は I SEE THIS の SEE のはたらきを極限まで拡大して禅的意識のフィールド構造のモデルとする。この SEE は、西洋哲学で intuition(直観)といわれるものときわめて近いのではないか。

直観を介することで、禅でいうところの「無位の真人」とライプニッツモナドとが仲よく握手しているような、そんな光景が目に浮んでくる。

「ばかなことをいうな」と泉下の著者から痛棒を食らわされるだろうか。