短小亭日乗

短くて小さい日記

山崎俊夫『夜の髪』


奢灞都館から出た作品集の第五巻。四巻まではわりと楽に手に入ったが、最終巻がなかなか見つからなかった。諦めて図書館で借りようか、とも思ったが、けっきょく定価の倍ほどのお金を払って購入することにした。しかしまあこれは買っておいてよかったと思う。

山崎俊夫については、稲垣足穂が次のように書いている。

下って大正五年頃、山崎俊夫という、『三田文学』『帝国文学』『雄弁』『秀才』『文壇』などに創作を発表していた作家の、『童貞』を題した小説集が、小川四方堂から出ている。これは少年側のデリケートな心理を取上げたもので、童貞、夜の鳥、夕化粧、鬱金桜、きさらぎ、ねがひ、死顔の七篇が収録されている。岩田準一氏編のカタログでは、「悉く衆道情緒を以て書かれたる作品にて、稀有の小説集なるべし」との折紙がついている。


私はこれを読んで、もしや、と思い当る節があった。というのも、むかし受け取った新刊案内のハガキにそれらしい名前を見たような記憶があったからだ。

押入れの抽斗をひっかきまわすと、当時の(30年前の!)ハガキが出てきた。一枚紛失しているようだが、こういうのを保存していたとは自分でもちょっと意外な気がする。




岩田準一が折紙をつけたとあっては、中身は保証されたも同然だ。そこでとりあえず上巻(第一巻)を買って読んでみたが、これが強烈で、残りの巻もぜんぶ揃えて読もう、という気になった。ところが──

あとになればなるほどつまらなくなるんですね。まあ、つまらないといっては語弊があるが、中巻以降はふつうの作家、それもあまりぱっとしない作家という印象だ。

私は上巻(すなわち単行本の『童貞』を中心に編まれた作品集)のうちでも、冒頭の「夕化粧」がいちばん卓れていると思う。これは山崎の事実上の処女作で、それまでの習作とは打って変って、形式・内容ともにほとんど完璧といってもいいような、奇蹟的な作品に仕上っている。

 糸のやうな雨がしとしとと紺蛇の目の傘に降りかかる。──
「あたしこのごろは髪の毛が抜けてしやうがないのよ。」
「春の末になるときつとさうなのよあたしも。やになつちやうわねえ。」
 築地のとある橋の上へさしかかつたふたりの娘。
 白粉を臙脂皿の中に溶かしたやうな暮春の重たい空気が、萎え饐えた溝渠の水面にゆたゆたとしばし揺蕩ふうち、はや何時ともなく日は暮れて、ゆふがたから降りだした雨はただ靄のやうにやはらかく街の灯をつつんで、道行く人影の幽かな線をすら宵闇のなかに融かしてしまふ。暗い橋桁の辺は早くも夜の憂鬱にたちこめられて、たぶたぶとした水へ灯影を映しながらついついと溝岸を滑つてゆく「かんてら」の灯も動かなくなつてしまつた。鼠色の空が燻した銀のやうに底光りするのをみれば、今夜あたりはあの雲の辺に月の出てゐるころである。


ここに描かれた大正初年の築地の情景は、ほとんどヴェニスと見紛うばかりのまぐわしさだ。この出だしだけで私はシャッポを脱いだ。山崎俊夫に完全降伏をしてしまった。


     * * *


奢灞都館の作品集は、実質的には「全集」であって、断簡零墨にいたるまで収めてある。よくもここまで集めたな、と感嘆するほどのもの。こんなすばらしい本を作ってくれた出版社と、それを企画した生田耕作にはいくら感謝してもしたりない。

ただし、造本はあまりよくない。函にアラステアの絵をあしらったのはまあいいとして、黒い布の装丁は安っぽいし、用紙も上質とはいいがたく、字体も美しくない。まあ、こういう手作り感のある本のほうが、山崎俊夫にはふさわしいかもしれないが……

なお、紹介者の生田耕作は、山崎の作品について「わが鏡花と、荷風と、江戸歌舞伎と、そして西欧世紀末文学とを混ぜ合わせ、これを天草切支丹天主堂の地下倉に貯えて醸造した摩訶不思議の美酒……とでも謂えようか」と書いている。


     * * *


最後に、今回買った最終巻について少し書いておこう。この巻には、岩田準一のいわゆる「衆道情緒」の横溢した短歌が収録されていて、これを見るだけでも買った甲斐はある。

そのうち、いくつかあげてみると──

かぐはしき血の塊をかげよかし古りたる胸をのみ打てる人


腐りゆく葡萄の房のほの匂ふそれかの如く胸怪しかり


かたはらにきみはありけりかたはらにきみはあらざり夢の憎さよ


なつかしき丁香とおもへ慕はしき伽羅ともおもへきみかづく夢


思ひいづかのきぬぎぬのわかれよりきみが瞳は太陽を怖づ


蝋燭のまつしろき涙かりそめにつもれるほどの夜をへぬるべし


首ほそきわかき俊夫なゆめひとに知らせたまひそをのこならじと


艸摺のいとかすかなる音に似るわが魂の春のめざめよ


きみが眼はあまりうつくしくちびるはあまりかはゆしわれは死ぬらん


少年の思ひ出としてそのかみの幻としてきみを眺めん


男とは世を欺きしかりの名かあまりにもろき性をもちたり


たはれ男に追はるる毎につくづくとこの身生みたる母を恨みし


朝顔まひるを待たで萎むかなわれもそのごとはやく死なまし