わが心の大和田
大阪市西淀川区大和田西2の39。これが私の精神上の原籍地だ。私はここに9歳まで住んでいた。
今日、仕事で近くを通ることになったので、しばらく車をとめて、子供のころ遊んだ思い出の場所を写真に撮ってきた。ひとさまにはまったく興味をもってもらえないと思うが、自分のために記事にしておこう。
まず最初に、その精神の原籍地の今の様子だ。ここにかつての私のアパートがあった。二階建てで、下にはうどん屋があった。私の家は、二階のいちばん奥にあった。
その家の前に、こういう記念碑が立っていた。私の子供のころにはもちろんこんなものはなかった*1。
家の前の道路(旧街道)を少し行ったところに、かつては太鼓橋という鉄橋がかかっていた。その橋は、いまでもどこかに移動させられて、保管されているという話を聞いたことがあるが、どうか。
このトラヤというのは、たぶん服屋だったと思う。父親がマフラーかなにかを買ったりしていた。いまでもそのままの名前でテントが出ているのにびっくりした。
そのトラヤの前の家並。ここに、かつて通わされていた勉強学校(死語か?)があった。青地という先生が教えていたが、私はここでの勉強がいやで、よくさぼっていた。青地先生も、おそらくはもうご存命ではあるまい。
千船駅の近くの階段。なんの変哲もない光景だが、私にはこれだけでもけっこうなノスタルジーの源泉だ。
その階段を登ったところにある建物。当時とほぼ変らないように思う。この建物の階段を降りたところに書道教室があって、一年ばかり通っていた。そのときの習字の先生は、私の母の先生でもあったらしい。
その建物の反対側の階段を降りたところ。かつてはここにせんぼし(千星?)という店があって、子供向けのおもちゃや駄菓子を売っていた。
現在の千船駅。当然のことながら、私の記憶にある千船駅とは似ても似つかない。
道を歩いていると、どういうわけかインドかスリランカの料理店がけっこうある。インド人らしい人にも何人か出会った。インド人のコミュニティーでもできているのだろうか?
その公園の横にある住吉神社。「和」という字が書かれた慰霊碑は、かつてはオベリスクのような尖塔だったが、いまは取り壊されてしまったらしい。横のお堂の裏に、その尖塔がへし折れて転がっていた。
その幼稚園の前にあるお寺。同級生のY君の家がこれだ。Y君はたぶん住職になっているんだろう。Y君の弟もかわいい少年だった。
最後に、当時好きだったあの子の家はまだあるのだろうか、と年甲斐もなく胸を躍らせながら探してみたが、それらしい家は見当らなかった。コンビニと駐車場が新たにできていて、かつての入り組んだ路地は跡形もなく消え失せていた。
* * *
子供のころ、学校で習った歌に、「大和田子供の歌」というのがある。歌詞は、
いつも仲よく、元気よく
楽しくいっしょに遊びましょう
大和田浦の宝船
流れる水に運ばれて
進め、世界の果てまでも
うろおぼえだが、こんな感じだった。
検索しても出てこないが、大和田で育ったアラカンの人々は知っていると思うので、もしちゃんとした歌詞をご存じの方がここを見られたら、ぜひご教示ください。
*1:後で思い出したが、20メートルほど東に行ったところに、古ぼけた黒い小さい碑が立っていて、「旧街道」と書いてあった