そぞろごと

退嬰老人日記

コロナ禍から得られたもの

6月の初めから人手不足のために早朝勤務に駆り出され、一日おきに4時半の起床を余儀なくされた。どうせこの生活が続くのなら、体調のためには毎日4時半に起きたほうがよくはないか、と思ってそうしてみたが、当然のことながら、通常勤務の日は早朝に3時間ほど自由時間ができる。この朝の時間というのが、私にはけっこう新鮮だった。

さて、ようやく人手も見つかって、2ヶ月半に及ぶ早朝勤務はなくなったが、朝4時半に起きる習慣だけは残った。これをどうするか。前のように夜型の生活に戻るか、それとも早起きを継続するか。

苦渋の選択というほどではないが、ちょっと迷ってから、とうぶんは朝型をつづけることにした。それには季節的な要因もある。この季節、夜は蒸し暑いけれども、朝はけっこう涼しいのである。この快適な時間を活用せざるべけんや、というわけだ。冬になって寒くなったら、夜型に戻すかもしれない。


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コロナ禍の余沢ともいうべきものに、筋トレがある。それについてはだいぶ前に書いたが、高齢者の筋トレにいろいろと問題が生じることもそのときにちょっと触れた。端的にいえば、筋肉に関節がついて行かないのだ。筋肉を増強するに十分なほど負荷を大きくすると、関節が傷んでしまうのである。私は経験者としていうのだが、高齢者は体を限界まで追い込んではいけない。ある程度余裕を残した状態でやめる、この引き際が大切なのだ。腕立て伏せ20回が限界なら、10回程度にとどめておくことだ。もちろん急激な筋力アップは望めないが、年寄りのすることに急速ということはない。なにごとも、そろそろ、ぼちぼちやるのが老人には向いている。

そうやって、そろそろ、ぼちぼちやる筋トレの、ひそかな楽しみというものを知ってしまったら、もう筋トレなしの生活には戻れない。なぜかといえば、とにかく日々体が軽く、体を動かすのが苦にならないという、はっきりした成果がすぐに得られるのだ。なにをするのもだるく、大儀だった自分からすれば、これは大いなる進歩だった。

つぎに体が引き締まって、服やズボンがぴったりと体に合うようになる。これも筋トレをやってすぐに手に入る収穫だ。べつに裸になって体を見せびらかさなくても、服の上からでも体つきのしなやかさは見て取れる。ある日鏡に映った自分の姿を見てはっとしたら、それは筋トレの成果だということができるだろう。

もうひとつ、これは鍛練全般についていえると思うが、精神的な鍛練、たとえば精神修養だとか、信仰における修行だとか、そういうものに確固とした根拠を与えてくれる、というのがある。じっさい、精神的な鍛練というのは、何年もつづけていても、はたして成果が得られたかどうか、不確かな場合が多い。いっしょうけんめい練習しているのに、はたして自分は上達しているのか、と自問して、はっきりイエスと答えられる人は多くないだろう。

ところが、肉体上の鍛練は、目に見えるかたちですぐに成果が確認できる。これが重要なポイントだ。たとえば私が筋トレに使う時間は、一日10分くらいだ。時間としてはあっという間だが、この少ない時間の蓄積が、短期間に目に見える成果を生み出すのである。

そのことが確認できれば、精神上の鍛錬についても、目には見えないながら、やはり日々の努力はなんらかのかたちで実を結んでいるんだろう、という確信が得られる。確信は努力の継続に糧をあたえる。そして努力の継続のみが成果を生み出すのであってみれば、信じて行うことの重要性は明らかだろう。

以上、長々と書いたが、そういうことに気づくことができただけでも、コロナ禍は私には意味があった。