そぞろごと

本、鉱物、音楽、etc.

読書について

速読というのがあって、達人になると、一冊の本を数分で読むことができるらしい。もちろん努力の賜物であろうが、人間の脳というものがいかに高性能に作られているか、このことからもわかるだろう。

私は、速読というほどではないが、若いころは本を読むのが速かった。ふつうの本なら数時間で読み終えることができたし、外国語の本でも二日あれば読了できた。

ところが、読むスピードがだんだん遅くなってきて、最近では一冊の本を読むのに何日もかかるようになってしまった。いや、それどころではない、何日かかっても読了できないことのほうが多くなってきた。

脳の衰えだろうか。それもあるだろう。しかし、それだけではない。そもそも、一冊の本は一回読んだだけでは「読んだ」といえないことが、だんだんわかってきたからだ。

若いころに読み飛ばした大量の本。いまの私はそれらのいったい何を覚えているか。ただ「読んだ」という記憶が残っているだけで、何が書いてあったか、きれいさっぱり忘れている。

たまに、昔に本を読みながらとったノートが残っていて、それを読み返してみると、ノートの内容などはもちろんことごとく忘れているが、それだけでなく、そのノートのもとになった本自体、読んだことをまったく記憶していない。ノートをとるという、時間と手間のかかることをしていても、書物の内容などはこのとおり、右から左へ抜けてくのだ。読み飛ばした本など、滓すら残っていないだろう。

というわけで、この先何冊読もうが、長い目でみると、なにも読まないのにひとしい結果になるのは必定だ。

それなら、読書なんぞはやめてしまうか。

やめてしまってもいいのだが、どうも長年染みついた習慣はなかなかふるい落とすのが困難だ。なにかというと、そこらにある本を開いてしまう。

どのみち死ぬまで縁が切れないものだとしたら、もう少し吟味して、読む価値のあるものを、それなりに時間をかけて、ていねいに読むほうが賢明なのではないか。もう私には、この先雑多な本を読み飛ばすだけの(ある意味でぜいたくな)時間は残されていないのだ。

それでも、翻って考えてみると、若いころに大量の本を読み飛ばすという経験をしていなかったら、はたして自分に読書という趣味が残ったかどうか、疑問に思う。今では痕跡すら残っていない、それらの本は、どこか見えないところで、私の精神の糧になっているのだと、せめてそう思いたい。