短小亭日乗

短くて小さい日記

二人のプリュドム


prudhommerie とか prudhommesque とかいう言葉があって、いずれも Prudhomme(人名)に由来する。意味は、くだらないことを勿体ぶってしゃべる、ということで、そんな言葉の語源になったプリュドム氏というのは、いつしか私にとって俗物のひとつの典型になってしまっていた。

それはそれでまちがってはいない。けれども、おかげでプリュドムには(少なくとも)二人がいることをすっかり見落していた。

ひとりは俗物の(しかも架空の)ジョゼフ・プリュドム。もうひとりはりっぱな詩人のシュリー・プリュドム。

ジュアンの評伝でヴァン・レルベルグが若いころプリュドムの詩集に読み耽っていたことを知ったときも、私の頭には俗物プリュドムのことしかなかったので、じつに意外な取り合わせだな、と思うばかりだった。これはもちろんシュリーのほうで、シュリーがどれだけ偉い詩人だったかは、初のノーベル文学賞が彼に与えられたことからもその一斑が知れる。

おのおののプリュドムについてはネットで調べられるから精しくは書かないが、シュリーは姓がプリュドムだったために不当に軽視されているのではないかと思う。少なくとも日本でフランス文学をかじっただけの人は、「プリュドム? ああ、あの俗物のことね」と確かめもせずにすましてしまう傾向があるのではないか。

ジョゼフ・プリュドムは生みの親のアンリ・モニエを食ってしまっただけでなく、日本では赤の他人のシュリー・プリュドムをも食ってしまったようにみえなくもない。

最後にシュリーの詩をひとつ。


こわれた花瓶

美女ざくらの花がしおれています。
花瓶に扇があたって罅が入ったのです。
ほんのわずか擦っただけのことです。
音ひとつ、しませんでした。

しかし、罅はよしわずかでも、
日ごと切子ガラスに食い入って、
目にもとまらぬうちにじりじりと、
花瓶を一とめぐりしたのです。

花瓶の水が逃げました、しとしとと、
そして花の水気が尽きました。
まだだれひとりそれに気づきません。
さわらないでください。こわれています。

美しい人の手が心をかすめて、
傷づけることもよくあることです。
そのうちに、心はしぜんひびわれて、
愛情の花が枯れるのです。

いつも人目につかずにいることですが、
細かくても深いその傷がじりじりと、
しみるつらさに心は忍び泣くでしょう。
こわれています。さわらないでください。

内藤濯訳)