そぞろごと

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『四畳半襖の下張』金阜山人戯作(伝・永井荷風)

江戸三大奇書の向うを張って、好色三大伝奇書なるものが一般に行われているらしい。その内訳は、明治の『袖と袖』、大正の『乱れ雲』、それに昭和の『四畳半襖の下張』である。成り行きとはいえ、前二作を読んだ手前、最後のものにも目を通しておくのが筋だろう、と思って、『面白半分』1972年7月号を購入。

これを見たときは驚いた。なにしろ数ページしかないのだ。さては抜粋か、と思ったが、どうやらこれで全文らしい。

語り手は初老の好色漢。「人生五十の坂も早一ツ二ツ超しながら、寝覚の床に聞く鐘の音も、あれは上野か浅草かとすぐに河東がゝりの鼻唄、まだなかなか諸行無常とは響かぬこそいやはや呆れた次第なり」とまず読者を笑わせる。

この老人、「老はまことや顔形のみならず、心までみにくゝするぞ是非もな幾」と嘆じ、「絵にも歌にもなつたものにあらず」と嘲りながら、「いやはやどうも恐れ入るもの、怪しからぬもの」を語り出そうというのだ。つまり自分の妻袖子との、芸者時代の「初会の床」の顛末を、である。

しかし、その内容は、必ずしも楽しく読めるものではない。なんとなく、女性に対してマウントをとることを専一にするあまり、性行為を徹頭徹尾テクニカルなものと捉える、その態度が鼻についてくる。女の肉体の構造から、その心理の襞にいたるまで、すべてを機械的なものとみなして制御できると考え、それをみずから実践することに価値を見出す男。フェミニストならずとも、唾棄すべき存在と映らないだろうか。

こういう嫌味な「通人」気質あるがゆえに、荷風は私の好みの作家になりえないのだ。

たしかに筆は立つし、文体的に非の打ちどころがない。しかし、中身がなくて文体だけ、というのは作品としてはどうなのか。

それこそがエクリチュールだよ、といわれれば返す言葉もないが。


     * * *


これの載った『面白半分』には、本文のあとに、二名の作家による「読後エッセイ」のようなものが置かれている。それを見ると、二人とも「四畳半~」などはそっちのけで、自分の性的体験ばかり語っている。なるほど作家とはそういうものかと思うが、これは作家のみならず、あらゆる人間に共通の傾向なのではないか。

私も今回春本三冊について記事を書くうえで、知らず知らずおのれのウィタ・セクスアリスを語ってしまっているかもしれない。見る人が見れば、ははあ、こいつはこういうやつだな、とわかってしまうだろう。

まあそれはそれでいい。というのも、個々人の vita sexualis は大文字の VITA SEXUALIS の、その都度の劣化コピーにすぎないと信じているので。