そぞろごと

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『乱れ雲』(伝・佐藤紅緑)

この前、家庭小説について書いたとき、春本も広義の家庭小説に入るのでは? というようなことを書いた。まあ、そんなことを真に受ける人もいないと思うが、いちおう検証のつもりで、古典的な春本を読んでみることにした。河出文庫で何冊か出ている秘本シリーズ、あれの第一巻「乱れ雲」を選んだのは、作者が佐藤紅緑*1に擬せられていることにもよる。

ところで、いきなり脱線するようだが、私は日本の春本は『赤い帽子の女』くらいしか読んだことがない。いっぽう、外国のものはけっこう読んでいる。それはなぜかというと、外国語学習には春本を読むのがいちばんだ、という俗説に従ったのである。

外国の春本では、ホフマン作と伝えらえる『尼僧モニカ』と、ヨゼフィーネ・ムッツェンバッヘル(じつはフェーリクス・ザルテン?)の『ウィーン娼婦の自伝』が最高によかった。こういうのが頭にあるので、なんとなく家庭小説との親近性を感じていたのだが……

結論からいえば、少なくともこの『乱れ雲』は家庭小説とは何の接点もない。

それはまず全篇を覆う無倫理が、家庭小説とは相容れないこと、それとここにはストーリーと呼べるようなものはなく、あるのは個々のシチュエーションだけだということ。

こういった要素のために、この作品はロマネスクから遠く離れたところに位置している。個々人をめぐるシチュエーションを軸に物語が展開していくのは、シュニッツラーの『輪舞』を思わせるが、これといったストーリーもなく、倫理なき性行為がひたすら描き出されるのは、これがいわゆる小説ではなく、エクリチュールと呼ぶよりほかないような「作品」であることを示している。この方向を推し進めた先にあるのが、ピエール・ギヨタの怪作『エデン・エデン・エデン』だ。

本書には男女あわせて何人もの人物が登場するが、そのいずれもが個人としてのアイデンティティを奪われて、たんなる男性器、女性器に還元されてしまい、みずからの意志とは関係のないところで性の秘儀に参入していくところは、一種の宗教的な神秘主義を思わせる。

登場人物の一人はいう、「凡ては平等です。男は多くの女を犯す! 女も斉しく多くの男と交るのは、一種の権利である。かようにして真の理解は得られ、真の愛は生ずる」と。

詭弁のようだが、じっさい性の混淆による世界の一元化というのは理念的にはありうるので、本書に描き出されたオルギアと、古代ギリシャ以来の密儀宗教とは意外に近いところに位置するのかもしれない。二十世紀の神秘家といわれたジョルジュ・バタイユなどは、神秘的体験とエロチックな体験との間に明確な線引きはしていないのである。……

本書は、本文もさることながら、城市郎による解説が非常によい。書誌情報も煩わしくない程度に紹介されているし、なにより佐藤紅緑の息子であるサトウ・ハチローからじかに聞かされた「秘話」が貴重だ。このシリーズは、もう少し続けて読んでみようと思う。

*1:大正時代の人気家庭小説作家