そぞろごと

退嬰老人日記

高山宏監修『蒐集』

コレクションというのは、やったことのない人にはバカみたいに映るかもしれないが、やってみればこれほどおもしろいものはない。

コレクションの効用。まず生活に張りと緊張が与えられて、毎日が非常に充実した日々となる。自分のことを例にあげれば、それはまさに中学時代、毎日が発明と発見の連続だったあのころの感興がよみがえってきたような感じだった。

これをひとことでいえば、自我(エゴ)の中心と自己(セルフ)の中心とがぴったり重なり合っているということで、そこから蒐集派のモットー、「われ蒐集す、ゆえにわれあり」が出てくる。このデカルトふうの命題は、伊達や酔狂ではなく、コレクターたる自己の存在論的深みから発せられた魂の叫びのごときものだ。

そういう人間にとって、高山宏の監修になる『蒐集』という本が、えもいわれぬ魅力をもって迫ってくるのは理の当然だろう。じっさいこれほど胸を高鳴らせて手に取った本はない。しかし──


蒐集 (Kenkyusha‐Reaktion Books)

蒐集 (Kenkyusha‐Reaktion Books)


ううむ、なんですかね、この違和感は。

まず冒頭の一行が、これですからね。

ノアの方舟のノアがコレクター第一号であった。


……違うでしょ、ぜったいに。

勘のいい人なら、この一行で本を壁に投げつけるところだが、私は律義にぜんぶ読んでしまった。そしてひどい徒労感に襲われた。だって、得るものなんにもないんですもの。

いや、まったくないわけではない。それは巻末に収められた高山宏の「マーヴェラスな所有」、これだけですかね、読む価値のあるのは。

しかし、それもいつもの高山節の変奏であって、けっきょくのところ、蒐集の行きつく先は驚異の部屋(ヴンダーカマー)である、という何の変哲もない結論に落ち着いている。そんなことは百も承知、二百も合点なのだ。そして、その先に行ってしまうと、あとはもう博物館の領域であって、個人の立ち入る余地はない。

蒐集を文化的営為とみて、個人が行う小規模なものも、博物館が行う大規模なものも、いっしょくたに論じるのはちょっと違うと思う。同じく蒐集といっても、幅がありすぎるのだ。

大方のコレクターにとって、蒐集とは「心地よく秘密めいたところ」を身辺に確保したいという、ささやかな望みに応ずるものだと思う。そういうインティメイトな視点が、蒐集論には不可欠なのだ。いたずらに話を大きくすればいいというものではない。

ところで、上にあげたコレクター第一号の話だが、私の知るかぎり、神話的人物をコレクションの守護神に祭り上げるとすれば、それはコボルトやグノームといった、土の精霊ではないかと思う。ゲーテの『ファウスト』の呪文に、「コボルト、いそしめ」というのがある。私はこの言葉をコレクター諸氏へのはなむけとしたい。