そぞろごと

退嬰老人日記

宇能鴻一郎『夢十夜』

その特異な文体で一世を風靡した(?)宇能氏が、2014年に新著を出していたことを知る。「生きとったんかいワレ!」とはこういうときに使うセリフだろう。いや、とにかくびっくりした。で、とりあえずそのご高著(?)を贖わせていただきました。

帯には「三十年の沈黙を破り奇跡の復活!」とある。2014年の30年前といえば1984年。そのころ宇能氏の出した本といえば、1986年の『視姦──ジェイムズ・ジョイス風に』というのがある。たぶんこれが沈黙前の宇能氏の最後の本ではないか。

この『視姦』はだいぶ前に買ったまま、読まずに放ってあった。このたび久しぶりに本棚から抜き出して読んでみたが、どうも設定に無理があって、最後までちぐはぐな感じが否めなかった。

その無理な設定というのは、当時はやりの(?)ロリコン趣味を作品の題材にしたことだ。宇能氏は自分でも書いているとおり、少女にはほとんど興味がない。当然のように、物語は緊張を欠いたままだらだらと先延ばしにされ、本題に関係のない美食談義や、時勢への批評のようなものばかりが目立つ、ということになる。

現実にもみくちゃにされた主人公が、みずから行為者であることをやめ、観察者の立場に身を置くことを宣言するところで、物語は終っている。

コレカラ一人ニナッテ、自分ハイヨイヨ、何ノ気ガカリモナシニ、視姦ノ世界ニノメリコンデユクダロウナ。自分ハ完全ナ怪物ニ変身スルニチガイナイ。


     * * *


さて、今回の『夢十夜』だが、前作で宣言したとおり、その後の氏は完全な怪物に変身したのだろうか?

それはわからない。というのも、本書で扱われているのは幼少年期から中年までのあれやこれやで、老年期のことは少しも書かれていないのだから。ただはっきりしているのは、氏が「八十歳のイジワルサチュルヌス神」になったことだ。

サチュルヌス神というのは、古代ギリシャローマ神話に出てくる好色な半獣神のことで、英語のサタイヤの語源でもある。

こういうサテュリコン式の小説は、作家ならだれしも書きたい思っているだろうが、ぜったいに一般受けしない。つまり売れない。ヨーロッパではラブレーとかスターンが代表的だが、日本でこの手の小説を書いて成功した唯一の例は漱石の『吾輩は猫である』くらいだろう。その漱石から題名だけパクって「猫」式の戯作を書く。いかにも宇能氏らしい悪戯だ。

氏は戦中派らしく、プレスリービートルズはまったく認めず、音楽はクラシック、それもワーグナーを至上とするらしい。建築はルートヴィヒ二世のノイシュヴァンシュタインを理想として、それを模した邸宅に住んでいるという。その豪邸(?)の一間で年に数回、貴顕紳士を招いて鹿鳴館の真似事をしているらしい。

こういうことからも知れるように、氏はいわゆるヨーロッパかぶれの人間であるが、外国語にはまったく興味がないという。これが私にはわからない。ヨーロッパが好きなら、どうしたって語学に興味が向くはずだと思うのだが、氏の場合はそうはならないらしい。

亜礼に外国語は読み書きも会話も全く不必要だった。翻訳が十分出ている。……国民の九割に外国語は不要だ。残り一割はへたで誤解されるか流暢すぎてバカにされる。……外国語教育は有害無益、とベテラン同時通訳の田丸公美子などは言っている。外国語が上手になるほど日本語がダメになり、引っ込み思案の国民性からしても外国語はムリ。……


と、まあこんな調子だが、うーん、これにはがっかりさせられるなあ。

しかし、宇能氏は小説家なので、ほんとのことは言わない(書かない)のかもしれない。彼の家の書斎に行ったら、金文字入りの原書が書棚を埋め尽くしていて、主人はメシャムパイプをくゆらせながら横文字の豪華本に読み耽っていた、なんてことも絶無とはいえないのだ。