Teuchedy について
ロバート・バートンの『憂鬱の解剖』に、Teuchedy というのが出てくる。これが何なのか、長いこと謎だったが、いつだったか、あるフォーラムでその語源解説がしてあって、なるほどと膝を打った。ところが、今見てみると、ページごと消え去っている。
もしかしたらどこかに移転しているのかもしれないが、探し当てることができなかった。そこで、記憶をたよりに覚書を作ってみよう。
バートンの記述をざっと記せば──
日本には Teuchedy なる偶像があって、月に一回、国じゅうでもっとも麗しい乙女が、初穂を摘まれるために、Fotoqui すなわち堂宇の一室に座らされる。時いたると Teuchedy(悪魔の一種ならん)が現れて、乙女を犯す。毎月新たな乙女が捧げられるが、彼女たちがその後どうなったかは、だれも知らない。
さて、この Teuchedy だが、ある人によれば、天照大神であるという。その根拠はといえば、
天照大神をテンショウダイジン(Tenshodaijin)と読んで、
Ten → Teu
sho → che
dai(jin) → dy
というふうに読み(書き)違えが起ったのではないか、というのだ。私にはけっこう説得的なのだが、どうだろう*1。
17世紀の英国では、まだまだ東洋に関する知識は浅くて、Fotoqui(ホトケ?)が church を意味するとか、かなりいい加減な記述が目立つ。
*1:ことに Teu における n と u との交替のごとき
わが心の大和田
大阪市西淀川区大和田西2の39。これが私の精神上の原籍地だ。私はここに9歳まで住んでいた。
今日、仕事で近くを通ることになったので、しばらく車をとめて、子供のころ遊んだ思い出の場所を写真に撮ってきた。ひとさまにはまったく興味をもってもらえないと思うが、自分のために記事にしておこう。
まず最初に、その精神の原籍地の今の様子だ。ここにかつての私のアパートがあった。二階建てで、下にはうどん屋があった。私の家は、二階のいちばん奥にあった。
その家の前に、こういう記念碑が立っていた。私の子供のころにはもちろんこんなものはなかった*1。
家の前の道路(旧街道)を少し行ったところに、かつては太鼓橋という鉄橋がかかっていた。その橋は、いまでもどこかに移動させられて、保管されているという話を聞いたことがあるが、どうか。
このトラヤというのは、たぶん服屋だったと思う。父親がマフラーかなにかを買ったりしていた。いまでもそのままの名前でテントが出ているのにびっくりした。
そのトラヤの前の家並。ここに、かつて通わされていた勉強学校(死語か?)があった。青地という先生が教えていたが、私はここでの勉強がいやで、よくさぼっていた。青地先生も、おそらくはもうご存命ではあるまい。
千船駅の近くの階段。なんの変哲もない光景だが、私にはこれだけでもけっこうなノスタルジーの源泉だ。
その階段を登ったところにある建物。当時とほぼ変らないように思う。この建物の階段を降りたところに書道教室があって、一年ばかり通っていた。そのときの習字の先生は、私の母の先生でもあったらしい。
その建物の反対側の階段を降りたところ。かつてはここにせんぼし(千星?)という店があって、子供向けのおもちゃや駄菓子を売っていた。
現在の千船駅。当然のことながら、私の記憶にある千船駅とは似ても似つかない。
道を歩いていると、どういうわけかインドかスリランカの料理店がけっこうある。インド人らしい人にも何人か出会った。インド人のコミュニティーでもできているのだろうか?
その公園の横にある住吉神社。「和」という字が書かれた慰霊碑は、かつてはオベリスクのような尖塔だったが、いまは取り壊されてしまったらしい。横のお堂の裏に、その尖塔がへし折れて転がっていた。
その幼稚園の前にあるお寺。同級生のY君の家がこれだ。Y君はたぶん住職になっているんだろう。Y君の弟もかわいい少年だった。
最後に、当時好きだったあの子の家はまだあるのだろうか、と年甲斐もなく胸を躍らせながら探してみたが、それらしい家は見当らなかった。コンビニと駐車場が新たにできていて、かつての入り組んだ路地は跡形もなく消え失せていた。
* * *
子供のころ、学校で習った歌に、「大和田子供の歌」というのがある。歌詞は、
いつも仲よく、元気よく
楽しくいっしょに遊びましょう
大和田浦の宝船
流れる水に運ばれて
進め、世界の果てまでも
うろおぼえだが、こんな感じだった。
検索しても出てこないが、大和田で育ったアラカンの人々は知っていると思うので、もしちゃんとした歌詞をご存じの方がここを見られたら、ぜひご教示ください。
*1:後で思い出したが、20メートルほど東に行ったところに、古ぼけた黒い小さい碑が立っていて、「旧街道」と書いてあった
『尼僧ヨアンナ』について
私がこれまで見た映画の中で、ベストテンを選ぶとすれば、必ず入ってくるのがカヴァレロヴィッチの『尼僧ヨアンナ』だ。このたび、ちょっと気になることがあったので、原作の方も覗いておくことにした(岩波文庫、関口時正訳)。
気になることというのは、映画の中で、ヨアンナに取り憑いた悪魔が名乗りをあげる場面がある。それが原作ではどうなっているのか、というのが私の興味の的だった。
その部分を原作から引用しよう。
「『わたしの中には九匹の悪魔がいるのです。ベヘモット、バラアム、イサアカロン、グレズィル、アマン、アスモデウス、ベゲリット、レヴィアタン、そしてザパリチカ』と一息で唱えると、急に怯えた風で黙りこんだ」
原文ではこうだ。
- Ja mam w sobie dziewięć demonów: Behemot, Balaam, Isaakaron, Grezyl, Aman, Asmodeusz, Begerit, Lewiatan i Zapaliczka - wyrecytowała jednym tchem i zamilkła nagle, jak gdyby przestraszona.
この九匹のうち、八匹はなんらかのかたちで素性がはっきりしているのだが、ザパリチカ(Zapaliczka)だけが正体不明だ。検索してみても、ポーランド語の文献(?)ばかりがヒットして、いっこうに要領を得ない。
天使のヒエラルキーは九層あって、最下位のエンジェルをもって全体の呼称としている。それでいくと、悪魔のほうは、末端のザパリチカをもって全体を代表させることができるかもしれない。じっさい、この作品では、のちのちまで名前の出てくる悪魔はザパリチカだけなのである。
* * *
私の見るところ、この作品のいわんとするのは、聖愛と俗愛とはそんなにきっちり区別のつくものではない、ということだ。そのあいまいな境界が悪魔のつけいる隙となる。個室での、一対一の悪魔祓い。これが危険なことはだれにだってわかる。聖愛が俗愛に転化するには申し分のないシチュエーションだ。しかし、スーリンはよほど自信があるのか、それとも自信のなさゆえの強がりか、あえてその危険な領域に踏みこむ。
映画ではここで二人が肉体的に結びついたような含みをもたせている。しかし、原作ではそこまでの描写はなかった。たんに手を把っただけだが、堅物スーリンにとってはそれだけでじゅうぶん悪魔のつけ入るところとなる。
ヨアンナの悪魔を一身に引き受けたつもりのスーリンは、体内に悪魔をとどめておくために、さらなる悪へ身を落とす。二人の下僕を斧で斬殺するのだ。これも映画では衝撃的だったが、原作ではわりあい淡々と語られている。「まあ、こうするよりほか仕方なかったんですよ」とでもいうように。
ここからも窺われるように、映画は原作よりはるかに力強く、崇高で、詩的ですらある。映画と比べれば、イヴァシュキェヴィッチの小説のごときは色青ざめた梗概のようなものだ。
顔のシンメトリーは精神のバランスのあらわれか?
凶悪事件の容疑者の顔写真を見ていつも思うのは、左右非対称の顔が多いな、ということだ。今回のボウガン男もしかり。やはりシンメトリーを欠いた顔というのは、精神的にもバランスが崩れているとみていいのだろうか。
何年か前に、ベトナム人の女児が強姦されて殺された事件があった。そのとき、牧逸馬の「双面獣」を思い出す、とミクシィのつぶやきに書いていた人がいて、私は思わず膝を打った。
「双面獣」というのは、1928年に起ったドロシイ殺しを扱った読物だが、その下手人であるアドルフ・ホテリング(Adolph Hotelling)の顔について、下記のような興味深い記述がある。
これなんかは、まあ極端な例だと思うが、最近報道される凶悪事件の犯人の顔も、たいてい左右非対称であることが気になっていたので、仮説のつもりで出しておく。
このことに関連してひとつ思い出すのは、アイドル歌手の桜田淳子だ。彼女の顔が左右非対称であることに、私は子供のころから気づいていた。顔立ちがきれいなだけに、これが残念でならなかったが、後年なにやら怪しげな宗教にかかわったことからしても、やはり精神的にバランスがとれていなかったのではないか、と今にして思う。
新世紀の幕開け
このたびのコロナ騒動で、やっと20世紀が終りを告げ、21世紀が始まるのかな、という気がしている。
なにを寝ぼけたことを、もう20年も前から21世紀に入ってるよ、という声もあるだろう。まあそれはそうだが、われわれが〇〇世紀という言葉で思い浮べるあれやこれやは、けっして西暦の百年紀で区切られているわけではない。
たとえば18世紀と19世紀との区切がどこにあるかといえば、おそらくナポレオン戦争が終結した1815年あたりだろう。それと同様に、19世紀と20世紀と区切はおそらく第一次大戦の終結(1918年)になるだろう。奇しくもその時期に、スペイン風邪が大流行している。それから100年後、コロナ騒動が世界を席捲した2020年をもって、新世紀の幕開けとするのにも、それなりの理由があるのだ。
私のように、20世紀と21世紀とにまたがって生きているような人間には、正直いって両者の区別があいまいで、ずいぶん変ったような気もすれば、たいして変っていないような気もする。そういう主観的な見方を離れて、客観的に眺めるならば、コロナ前、コロナ後で歴史が二分されるというのもひとつの仮説として成り立つのではないか。
うっとうしい日々が続くが、そういう歴史的な転換期に際会していると思えば、これも貴重な体験になるだろう。私としては、生きているうちに、はっきりと21世紀の顔を見極めたい気持がつよい。