そぞろごと

退嬰老人日記

スーパーギタートリオのひみつのなぞ

1981年に出たスーパーギタートリオのライヴ盤。これを聴いてアコースティックギター(当時はフォークギターと呼んでいた)に対する認識が一変してしまった人は多いと思う。私もそれまで少しはギターにも触れていたが、この演奏に驚いてスパニッシュギターやらオベーションやらを買いこみ、しばらくはかれらの真似ばかりしていた。

このアルバムがYTにまるごとアップされている。それも6年も前から。



さて、このアルバムがすごいのは万人の認めるところだろうが、これを名盤たらしめているのは、必ずしも演奏者だけの功績ではない。というのも、これはアコギの実況録音盤には違いないが、レコード化の段階でいろいろと小細工が施されているのだ。

まずひとつは、低音成分をかなり強調してあること。その結果、音に厚みが出て、まるでベースが参加しているかのような、ドライヴ感が生れるのだ。

次に、再生速度を微妙に上げてあること。それにともなってピッチもやや上がっている。これはほんとに微妙な、かくし味といってもいいような処理なのだが、これによってスピード感がいやがうえにも増している。

最後に聴衆のリアクション。これを過剰なまでに入れることで、作品の芸術性を犠牲にしても、ライヴとしての臨場感が飛躍的に高まっている。


     * * *


それしても、かれらはその後も似たようなフォーマットで演奏を続けているが、このライヴ盤を超える演奏はおそらくひとつもない。自分が過去に打ち立てた記録を更新することができず、劣化コピーばかり量産しつづけるのもつらいだろうな、と思うのだが、かれらはたぶんそんなことは気にしていない。そんなことを気にするようなら、とっくに演奏活動などやめているだろう。

冷徹な自己認識をもたないのが、プロとしてやっていくための心得なのである。

宮崎湖処子『帰省』

筑摩の文学全集(初代)の「明治名作集」を手に入れて、最初から順に読んでいったが、どの作品もじつにおもしろい。個々の作品を覆っている、いまは失われた明治時代の雰囲気が、たまらなく魅力的なものに感じられる。ところが、宮崎湖処子の「帰省」にいたって、読書スピードががくんと落ちてしまった。

なんという、砂を噛むような、つまらない作品であろうか。

田舎から東京に出てきた青年が、六年ぶりに帰省する、その故郷でのあれこれが、もったいぶった文体でえんえんと綴られる。これがはたして文学であろうか? 私には学生の書いた作文以上のものには見えなかった。

巻末の「解説」を読むと、この作品は当時非常に評判になったらしく、国木田独歩も、田山花袋も、ここから多大な影響を受けたらしい。詩の方でも、初期の蒲原有明薄田泣菫などに影響を及ぼした、とある。

こういうものが受けたというところに、明治という時代の、いまの感覚では理解しがたい一面を見たような気がした。

毒舌で有名な黄眠は、湖処子について何といっているかと思って『明治大正詩史』をひっくり返してみたら、全般的に意外にも好意的で、『帰省』についても、「新青年の新感情で帰って見た田園を殉情的に詠嘆した清麗の散文詩風の逸作」と褒めて(?)いる。

明治文学は、いま読んでもおもしろいものがある一方で、当時の空気を同時代的に吐呑した人たちにしかわからない、小乗的なもの*1も少なくないんだろうな、と思った。

*1:それだけに好きな人にはたまらないのだろうが

Teuchedy について

ロバート・バートンの『憂鬱の解剖』に、Teuchedy というのが出てくる。これが何なのか、長いこと謎だったが、いつだったか、あるフォーラムでその語源解説がしてあって、なるほどと膝を打った。ところが、今見てみると、ページごと消え去っている。

もしかしたらどこかに移転しているのかもしれないが、探し当てることができなかった。そこで、記憶をたよりに覚書を作ってみよう。

バートンの記述をざっと記せば──

日本には Teuchedy なる偶像があって、月に一回、国じゅうでもっとも麗しい乙女が、初穂を摘まれるために、Fotoqui すなわち堂宇の一室に座らされる。時いたると Teuchedy(悪魔の一種ならん)が現れて、乙女を犯す。毎月新たな乙女が捧げられるが、彼女たちがその後どうなったかは、だれも知らない。

さて、この Teuchedy だが、ある人によれば、天照大神であるという。その根拠はといえば、

天照大神をテンショウダイジン(Tenshodaijin)と読んで、

Ten → Teu
sho → che
dai(jin) → dy

というふうに読み(書き)違えが起ったのではないか、というのだ。私にはけっこう説得的なのだが、どうだろう*1

17世紀の英国では、まだまだ東洋に関する知識は浅くて、Fotoqui(ホトケ?)が church を意味するとか、かなりいい加減な記述が目立つ。

*1:ことに Teu における n と u との交替のごとき

ホフマンスタールについて

彼について何か書くほどよく読んでいるわけではないが、ドイツ語で最初に一冊読み通した本が、彼の『道と出会い』だった。読み通したといっても、薄っぺらいレクラム文庫なので、たいしたことはないが、やっぱり最初の一冊というのは後々まで影響する。私にとってホフマンスタールは、ドイツ語の先生なのである。

その先生の本は、その後もことあるごとに読み返した。文章がじつに魅力的だから、ということもあるが、内容がはっきりつかめないというのもある。何度読んでもわからない箇所が出てくる。いや、わからない箇所、どころではない。全体として何が書いてあるのか、はっきりわからないのだ。こんなので、はたして読んだといえるだろうか。

そうこうするうちに、ウン十年という月日はあっという間に流れ、私もすっかりドイツ語とは疎遠になった。もう今後、自分が熱心にドイツ語に取り組むことはないだろう。そう思うと、若いころに親しんだホフマンスタールをもう一度、ちゃんと読んでおきたいという気になった。今度は日本語で、すみずみまで理解できるようにしよう。

そこで岩波文庫の『チャンドス卿の手紙』と『ウィーン世紀末文学選』を買った。幸いにして、レクラム文庫に収められた短篇は、すべてこちらに収められている。で、さっそく読んでみたが──

読解の及ばなかったところがわかるようになったのはありがたかった。なるほどそういうことか、と腑に落ちた箇所はいくつもある。しかしけっきょくのところ、かつてドイツ語で読んだのと、基本的には同じ程度の理解しか得られなかったのはどういうことだろう。日本語で読んでも、ホフマンスタールは依然として謎なのである。

それと、原文の魅力──それは多分に謎めいた内容と不可分だと思うが──が、和訳では決定的に失われている。なんだかばさばさに乾ききっていて、ちっともエロチックでないのが残念だ。私はホフマンスタールの文章はけっこうエロいと思っているのでね。

ただ、檜山訳を読んだ後で、池内紀の「バッソンピエール公綺譚」を読んだら、正確かどうかはべつとして、なかなかうまく原文の趣を伝えていると思った。

最後に私の読み違えでひどいやつを書いておく。バッソンピエールの話の末尾に、ペストで死んだ夫婦の部屋で火をおこす場面がある。私はこれを、てっきり死体を焼いているんだと勘違いしていた。前にコロナについて書いた記事で、ちょっとそのことを引き合いに出したが、すみません、私の読み違えでした。

正しくは、燃やしたのはベッドの藁だけで、二人の死骸はわきのテーブルに裸で転がしてあったのだった。


ウィーン世紀末文学選 (岩波文庫)

ウィーン世紀末文学選 (岩波文庫)

  • 作者:池内 紀
  • 発売日: 1989/10/16
  • メディア: 文庫

わが心の大和田

大阪市西淀川区大和田西2の39。これが私の精神上の原籍地だ。私はここに9歳まで住んでいた。

今日、仕事で近くを通ることになったので、しばらく車をとめて、子供のころ遊んだ思い出の場所を写真に撮ってきた。ひとさまにはまったく興味をもってもらえないと思うが、自分のために記事にしておこう。

まず最初に、その精神の原籍地の今の様子だ。ここにかつての私のアパートがあった。二階建てで、下にはうどん屋があった。私の家は、二階のいちばん奥にあった。


その家の前に、こういう記念碑が立っていた。私の子供のころにはもちろんこんなものはなかった*1


家の前の道路(旧街道)を少し行ったところに、かつては太鼓橋という鉄橋がかかっていた。その橋は、いまでもどこかに移動させられて、保管されているという話を聞いたことがあるが、どうか。


このトラヤというのは、たぶん服屋だったと思う。父親がマフラーかなにかを買ったりしていた。いまでもそのままの名前でテントが出ているのにびっくりした。


そのトラヤの前の家並。ここに、かつて通わされていた勉強学校(死語か?)があった。青地という先生が教えていたが、私はここでの勉強がいやで、よくさぼっていた。青地先生も、おそらくはもうご存命ではあるまい。


私の通っていた小学校。もちろん当時とはまったく違っている。


千船駅の近くの階段。なんの変哲もない光景だが、私にはこれだけでもけっこうなノスタルジーの源泉だ。


その階段を登ったところにある建物。当時とほぼ変らないように思う。この建物の階段を降りたところに書道教室があって、一年ばかり通っていた。そのときの習字の先生は、私の母の先生でもあったらしい。


その建物の反対側の階段を降りたところ。かつてはここにせんぼし(千星?)という店があって、子供向けのおもちゃや駄菓子を売っていた。


千船駅の手前の橋の上から見た神崎川


現在の千船駅。当然のことながら、私の記憶にある千船駅とは似ても似つかない。


道を歩いていると、どういうわけかインドかスリランカの料理店がけっこうある。インド人らしい人にも何人か出会った。インド人のコミュニティーでもできているのだろうか?


子供のころよく遊んだ公園。


その公園の横にある住吉神社。「和」という字が書かれた慰霊碑は、かつてはオベリスクのような尖塔だったが、いまは取り壊されてしまったらしい。横のお堂の裏に、その尖塔がへし折れて転がっていた。












私の通っていた幼稚園。


その幼稚園の前にあるお寺。同級生のY君の家がこれだ。Y君はたぶん住職になっているんだろう。Y君の弟もかわいい少年だった。


最後に、当時好きだったあの子の家はまだあるのだろうか、と年甲斐もなく胸を躍らせながら探してみたが、それらしい家は見当らなかった。コンビニと駐車場が新たにできていて、かつての入り組んだ路地は跡形もなく消え失せていた。

     * * *


子供のころ、学校で習った歌に、「大和田子供の歌」というのがある。歌詞は、


いつも仲よく、元気よく
楽しくいっしょに遊びましょう
和田浦の宝船
流れる水に運ばれて
進め、世界の果てまでも


うろおぼえだが、こんな感じだった。


検索しても出てこないが、大和田で育ったアラカンの人々は知っていると思うので、もしちゃんとした歌詞をご存じの方がここを見られたら、ぜひご教示ください。

*1:後で思い出したが、20メートルほど東に行ったところに、古ぼけた黒い小さい碑が立っていて、「旧街道」と書いてあった