短小亭日乗

短くて小さい日記

『尼僧ヨアンナ』について


私がこれまで見た映画の中で、ベストテンを選ぶとすれば、必ず入ってくるのがカヴァレロヴィッチの『尼僧ヨアンナ』だ。このたび、ちょっと気になることがあったので、原作の方も覗いておくことにした(岩波文庫、関口時正訳)。

気になることというのは、映画の中で、ヨアンナに取り憑いた悪魔が名乗りをあげる場面がある。それが原作ではどうなっているのか、というのが私の興味の的だった。

その部分を原作から引用しよう。

「『わたしの中には九匹の悪魔がいるのです。ベヘモット、バラアム、イサアカロングレズィル、アマン、アスモデウス、ベゲリット、レヴィアタン、そしてザパリチカ』と一息で唱えると、急に怯えた風で黙りこんだ」

原文ではこうだ。

  • Ja mam w sobie dziewięć demonów: Behemot, Balaam, Isaakaron, Grezyl, Aman, Asmodeusz, Begerit, Lewiatan i Zapaliczka - wyrecytowała jednym tchem i zamilkła nagle, jak gdyby przestraszona.

この九匹のうち、八匹はなんらかのかたちで素性がはっきりしているのだが、ザパリチカ(Zapaliczka)だけが正体不明だ。検索してみても、ポーランド語の文献(?)ばかりがヒットして、いっこうに要領を得ない。

天使のヒエラルキーは九層あって、最下位のエンジェルをもって全体の呼称としている。それでいくと、悪魔のほうは、末端のザパリチカをもって全体を代表させることができるかもしれない。じっさい、この作品では、のちのちまで名前の出てくる悪魔はザパリチカだけなのである。


     * * *


私の見るところ、この作品のいわんとするのは、聖愛と俗愛とはそんなにきっちり区別のつくものではない、ということだ。そのあいまいな境界が悪魔のつけいる隙となる。個室での、一対一の悪魔祓い。これが危険なことはだれにだってわかる。聖愛が俗愛に転化するには申し分のないシチュエーションだ。しかし、スーリンはよほど自信があるのか、それとも自信のなさゆえの強がりか、あえてその危険な領域に踏みこむ。

映画ではここで二人が肉体的に結びついたような含みをもたせている。しかし、原作ではそこまでの描写はなかった。たんに手を把っただけだが、堅物スーリンにとってはそれだけでじゅうぶん悪魔のつけ入るところとなる。

ヨアンナの悪魔を一身に引き受けたつもりのスーリンは、体内に悪魔をとどめておくために、さらなる悪へ身を落とす。二人の下僕を斧で斬殺するのだ。これも映画では衝撃的だったが、原作ではわりあい淡々と語られている。「まあ、こうするよりほか仕方なかったんですよ」とでもいうように。

ここからも窺われるように、映画は原作よりはるかに力強く、崇高で、詩的ですらある。映画と比べれば、イヴァシュキェヴィッチの小説のごときは色青ざめた梗概のようなものだ。


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顔のシンメトリーは精神のバランスのあらわれか?


凶悪事件の容疑者の顔写真を見ていつも思うのは、左右非対称の顔が多いな、ということだ。今回のボウガン男もしかり。やはりシンメトリーを欠いた顔というのは、精神的にもバランスが崩れているとみていいのだろうか。

何年か前に、ベトナム人の女児が強姦されて殺された事件があった。そのとき、牧逸馬の「双面獣」を思い出す、とミクシィのつぶやきに書いていた人がいて、私は思わず膝を打った。

「双面獣」というのは、1928年に起ったドロシイ殺しを扱った読物だが、その下手人であるアドルフ・ホテリング(Adolph Hotelling)の顔について、下記のような興味深い記述がある。


Adolph Hotelling


これなんかは、まあ極端な例だと思うが、最近報道される凶悪事件の犯人の顔も、たいてい左右非対称であることが気になっていたので、仮説のつもりで出しておく。

このことに関連してひとつ思い出すのは、アイドル歌手の桜田淳子だ。彼女の顔が左右非対称であることに、私は子供のころから気づいていた。顔立ちがきれいなだけに、これが残念でならなかったが、後年なにやら怪しげな宗教にかかわったことからしても、やはり精神的にバランスがとれていなかったのではないか、と今にして思う。

新世紀の幕開け


このたびのコロナ騒動で、やっと20世紀が終りを告げ、21世紀が始まるのかな、という気がしている。

なにを寝ぼけたことを、もう20年も前から21世紀に入ってるよ、という声もあるだろう。まあそれはそうだが、われわれが〇〇世紀という言葉で思い浮べるあれやこれやは、けっして西暦の百年紀で区切られているわけではない。

たとえば18世紀と19世紀との区切がどこにあるかといえば、おそらくナポレオン戦争終結した1815年あたりだろう。それと同様に、19世紀と20世紀と区切はおそらく第一次大戦終結(1918年)になるだろう。奇しくもその時期に、スペイン風邪が大流行している。それから100年後、コロナ騒動が世界を席捲した2020年をもって、新世紀の幕開けとするのにも、それなりの理由があるのだ。

私のように、20世紀と21世紀とにまたがって生きているような人間には、正直いって両者の区別があいまいで、ずいぶん変ったような気もすれば、たいして変っていないような気もする。そういう主観的な見方を離れて、客観的に眺めるならば、コロナ前、コロナ後で歴史が二分されるというのもひとつの仮説として成り立つのではないか。

うっとうしい日々が続くが、そういう歴史的な転換期に際会していると思えば、これも貴重な体験になるだろう。私としては、生きているうちに、はっきりと21世紀の顔を見極めたい気持がつよい。

ダニエル・シュミット『ラ・パロマ』


大昔に深夜放送で半分眠りながら見たものをもう一度ちゃんと見ておこうと。

そんな気になったのは、この映画がなかなかレアで、めったに見るチャンスがないせいでもある。本作にかぎらず、ダニエル・シュミットの作品は軒並み廃番で、再発のめども立っていない。過去の遺物として、だれも顧みないのだろうか。かつてはレンタルビデオ屋にけっこう並んでいたような気がするが……

まあそれはともかくとして、初めてちゃんとした形で見た本作、いやはや、そのヨーロッパ濃度のあまりの高さに参りました(もちろんいい意味で)。この手の映画を見るのが久しぶりというのもあるが、とにかくどこを切ってもヨーロッパという、金太郎飴のような作品。

話のもとになっているのは、ハンス・ハインツ・エーヴェルスの短篇「スタニスラワ・ダスプの遺言」だが、シュミットは原作のもつ俗悪さをみごとに脱色して、そこにグスタフ・クリムトふうの、世紀末ウィーン趣味を吹き込んでいる。クリムトマーラーのかもしだす、あの雰囲気がこの映画には横溢しているのだ。

だからそういうものが好きな人には無条件ですばらしい映画であり、そういうものに興味のない人にはだらだらした退屈な映画ということになるだろう。私にとっては、大枚はたいて買っただけのことはあった。


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二人のプリュドム


prudhommerie とか prudhommesque とかいう言葉があって、いずれも Prudhomme(人名)に由来する。意味は、くだらないことを勿体ぶってしゃべる、ということで、そんな言葉の語源になったプリュドム氏というのは、いつしか私にとって俗物のひとつの典型になってしまっていた。

それはそれでまちがってはいない。けれども、おかげでプリュドムには(少なくとも)二人がいることをすっかり見落していた。

ひとりは俗物の(しかも架空の)ジョゼフ・プリュドム。もうひとりはりっぱな詩人のシュリー・プリュドム。

ジュアンの評伝でヴァン・レルベルグが若いころプリュドムの詩集に読み耽っていたことを知ったときも、私の頭には俗物プリュドムのことしかなかったので、じつに意外な取り合わせだな、と思うばかりだった。これはもちろんシュリーのほうで、シュリーがどれだけ偉い詩人だったかは、初のノーベル文学賞が彼に与えられたことからもその一斑が知れる。

おのおののプリュドムについてはネットで調べられるから精しくは書かないが、シュリーは姓がプリュドムだったために不当に軽視されているのではないかと思う。少なくとも日本でフランス文学をかじっただけの人は、「プリュドム? ああ、あの俗物のことね」と確かめもせずにすましてしまう傾向があるのではないか。

ジョゼフ・プリュドムは生みの親のアンリ・モニエを食ってしまっただけでなく、日本では赤の他人のシュリー・プリュドムをも食ってしまったようにみえなくもない。

最後にシュリーの詩をひとつ。


こわれた花瓶

美女ざくらの花がしおれています。
花瓶に扇があたって罅が入ったのです。
ほんのわずか擦っただけのことです。
音ひとつ、しませんでした。

しかし、罅はよしわずかでも、
日ごと切子ガラスに食い入って、
目にもとまらぬうちにじりじりと、
花瓶を一とめぐりしたのです。

花瓶の水が逃げました、しとしとと、
そして花の水気が尽きました。
まだだれひとりそれに気づきません。
さわらないでください。こわれています。

美しい人の手が心をかすめて、
傷づけることもよくあることです。
そのうちに、心はしぜんひびわれて、
愛情の花が枯れるのです。

いつも人目につかずにいることですが、
細かくても深いその傷がじりじりと、
しみるつらさに心は忍び泣くでしょう。
こわれています。さわらないでください。

内藤濯訳)