短小亭日乗

短くて小さい日記

新世紀の幕開け


このたびのコロナ騒動で、やっと20世紀が終りを告げ、21世紀が始まるのかな、という気がしている。

なにを寝ぼけたことを、もう20年も前から21世紀に入ってるよ、という声もあるだろう。まあそれはそうだが、われわれが〇〇世紀という言葉で思い浮べるあれやこれやは、けっして西暦の百年紀で区切られているわけではない。

たとえば18世紀と19世紀との区切がどこにあるかといえば、おそらくナポレオン戦争終結した1815年あたりだろう。それと同様に、19世紀と20世紀と区切はおそらく第一次大戦終結(1918年)になるだろう。奇しくもその時期に、スペイン風邪が大流行している。それから100年後、コロナ騒動が世界を席捲した2020年をもって、新世紀の幕開けとするのにも、それなりの理由があるのだ。

私のように、20世紀と21世紀とにまたがって生きているような人間には、正直いって両者の区別があいまいで、ずいぶん変ったような気もすれば、たいして変っていないような気もする。そういう主観的な見方を離れて、客観的に眺めるならば、コロナ前、コロナ後で歴史が二分されるというのもひとつの仮説として成り立つのではないか。

うっとうしい日々が続くが、そういう歴史的な転換期に際会していると思えば、これも貴重な体験になるだろう。私としては、生きているうちに、はっきりと21世紀の顔を見極めたい気持がつよい。

ダニエル・シュミット『ラ・パロマ』


大昔に深夜放送で半分眠りながら見たものをもう一度ちゃんと見ておこうと。

そんな気になったのは、この映画がなかなかレアで、めったに見るチャンスがないせいでもある。本作にかぎらず、ダニエル・シュミットの作品は軒並み廃番で、再発のめども立っていない。過去の遺物として、だれも顧みないのだろうか。かつてはレンタルビデオ屋にけっこう並んでいたような気がするが……

まあそれはともかくとして、初めてちゃんとした形で見た本作、いやはや、そのヨーロッパ濃度のあまりの高さに参りました(もちろんいい意味で)。この手の映画を見るのが久しぶりというのもあるが、とにかくどこを切ってもヨーロッパという、金太郎飴のような作品。

話のもとになっているのは、ハンス・ハインツ・エーヴェルスの短篇「スタニスラワ・ダスプの遺言」だが、シュミットは原作のもつ俗悪さをみごとに脱色して、そこにグスタフ・クリムトふうの、世紀末ウィーン趣味を吹き込んでいる。クリムトマーラーのかもしだす、あの雰囲気がこの映画には横溢しているのだ。

だからそういうものが好きな人には無条件ですばらしい映画であり、そういうものに興味のない人にはだらだらした退屈な映画ということになるだろう。私にとっては、大枚はたいて買っただけのことはあった。


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二人のプリュドム


prudhommerie とか prudhommesque とかいう言葉があって、いずれも Prudhomme(人名)に由来する。意味は、くだらないことを勿体ぶってしゃべる、ということで、そんな言葉の語源になったプリュドム氏というのは、いつしか私にとって俗物のひとつの典型になってしまっていた。

それはそれでまちがってはいない。けれども、おかげでプリュドムには(少なくとも)二人がいることをすっかり見落していた。

ひとりは俗物の(しかも架空の)ジョゼフ・プリュドム。もうひとりはりっぱな詩人のシュリー・プリュドム。

ジュアンの評伝でヴァン・レルベルグが若いころプリュドムの詩集に読み耽っていたことを知ったときも、私の頭には俗物プリュドムのことしかなかったので、じつに意外な取り合わせだな、と思うばかりだった。これはもちろんシュリーのほうで、シュリーがどれだけ偉い詩人だったかは、初のノーベル文学賞が彼に与えられたことからもその一斑が知れる。

おのおののプリュドムについてはネットで調べられるから精しくは書かないが、シュリーは姓がプリュドムだったために不当に軽視されているのではないかと思う。少なくとも日本でフランス文学をかじっただけの人は、「プリュドム? ああ、あの俗物のことね」と確かめもせずにすましてしまう傾向があるのではないか。

ジョゼフ・プリュドムは生みの親のアンリ・モニエを食ってしまっただけでなく、日本では赤の他人のシュリー・プリュドムをも食ってしまったようにみえなくもない。

最後にシュリーの詩をひとつ。


こわれた花瓶

美女ざくらの花がしおれています。
花瓶に扇があたって罅が入ったのです。
ほんのわずか擦っただけのことです。
音ひとつ、しませんでした。

しかし、罅はよしわずかでも、
日ごと切子ガラスに食い入って、
目にもとまらぬうちにじりじりと、
花瓶を一とめぐりしたのです。

花瓶の水が逃げました、しとしとと、
そして花の水気が尽きました。
まだだれひとりそれに気づきません。
さわらないでください。こわれています。

美しい人の手が心をかすめて、
傷づけることもよくあることです。
そのうちに、心はしぜんひびわれて、
愛情の花が枯れるのです。

いつも人目につかずにいることですが、
細かくても深いその傷がじりじりと、
しみるつらさに心は忍び泣くでしょう。
こわれています。さわらないでください。

内藤濯訳)

サッポーの歌をギリシャ語で聴く


呉茂一の訳したサッポーの「アプロディテー讃歌」。これはなかなかすごいものではないかと思う。

はしけやし きらがの座に とはにます神アプロディタ、
天帝のおん子、謀計の織り手、御前にねぎまつらくは
おほよその 世のうきふし なやみごともて
我が胸を 挫きたまはで、……


しかし、ご覧のとおり、これらの文字から古代ギリシャ情緒を汲み取るのはむつかしい。じっさいこれは、万葉時代の日本と二重写しになった古代ギリシャなのである。

この訳詩がすばらしければすばらしいだけ、サッポーの原詩がどんなものか、気になってくる。そこでネットを調べると、ギリシャ語の原詩と、その英訳が見つかった。


英訳をみると、じつにあっさりしている。呉の訳とはまた別の意味で、やはり古代ギリシャらしくない。まあそれはそれとして、このサッポーの原詩、いったいどんな感じで耳に響くのか。動画サイトを漁ってみたら、次のようなのが見つかった。



演奏者がどういう人か、なにをもとにしてこういう演奏になったのか、精しいことは分らないが、とにかくこの演奏は私を魅了した。まさにギリシャの歌姫が、キタラを伴奏に歌いだしたかのような気がしたからだ。そして、ここに聴かれる歌の響きが、西洋というよりむしろ東洋的なのが私には興味深かった。井筒俊彦が東洋を定義して、「西は古代ギリシャまで」といっているのを見て、それはちょっと強引ではないか、と思ったが、アーリア系ということでは、たしかに古代ギリシャは東洋の西漸と考えることもできる。

視聴するには、やはりテクストがあったほうがいいだろうと思って、下にギリシャ語をローマ字に移したものをあげておく。もとより不完全なものだが、なにも手がかりがないよりはましだろう。


Poikilothron athanat Aphrodita,
pai Dios, doloploke, lissomai se
me m'asaisi met' oniaisi damna,
potnia thymon.

alla tyid' elth' aipota katerota
tas emas audos haioisa pelgi
eklyes patros de domon lipoisa
chrysion elthes

arm' Ypozeuxaia, kaloi de s' agon
okees struthoi peri gas melainas
pykna deneuntes pter ap' orano
aitheros dia messo.

aipsa d' echikonto, sy d' o masaira
meidiasais athanato prosopo,
ere otti deyte pepontha kotti
degte kalemi

kotti moi malista thelo genesthai
mainola thymo tina deyte meitho
mais agen es san philotata tis t, o
Psapph, adikeei;

kai gar ai pheulei, tacheos dioxei,
ai de dora me deket alla dosei
ai de me philei tacheos philesei,
koyk etheloisa.

elthe moi kai nyn, chalepan de lyson
ek merimnan ossa de moi telessai
thymos immerrei teleson sy d' auta
symmachos esso.

狂詩について


東洋文庫平凡社)の「江戸狂詩の世界」という本をぱらぱらめくっているが、どうも興が乗らない。中途半端にひねったものばかりで、がつんとくるものがないのだ。「江戸のエスプリがわからぬか」と通人にいわれそうだが、エスプリなんぞはどうでもいい。私が狂詩に求めるのは、もっと下世話な、もっとばかばかしい、もっと狂的な世界である。

たとえばこんなもの。


虎龍一翻知唐将
親々若子南山寿
不避山砂至臨泉
矢張奔馬酔淮南


これを「虎と龍と、一たび翻って唐将を知れば……」などと読んでも意味は通じない。下に読み方を書いておくが、これを見てもなんのことやら分らない人もいるだろう。


こたついちばんしりからしよう
おやおやわかいしゅなにさんす
ふざけさんすなしりんせん
やはりほんまがえいわいな


(註)
「しりんせん」というのは昔のおいらんの言葉で「知らないわ」という意味。「ほんま」というのは「本間取り」の略で、人間にとっていちばん自然な体位をさす。