短小亭日乗

短くて小さい日記

サッポーの歌をギリシャ語で聴く


呉茂一の訳したサッポーの「アプロディテー讃歌」。これはなかなかすごいものではないかと思う。

はしけやし きらがの座に とはにます神アプロディタ、
天帝のおん子、謀計の織り手、御前にねぎまつらくは
おほよその 世のうきふし なやみごともて
我が胸を 挫きたまはで、……


しかし、ご覧のとおり、これらの文字から古代ギリシャ情緒を汲み取るのはむつかしい。じっさいこれは、万葉時代の日本と二重写しになった古代ギリシャなのである。

この訳詩がすばらしければすばらしいだけ、サッポーの原詩がどんなものか、気になってくる。そこでネットを調べると、ギリシャ語の原詩と、その英訳が見つかった。


英訳をみると、じつにあっさりしている。呉の訳とはまた別の意味で、やはり古代ギリシャらしくない。まあそれはそれとして、このサッポーの原詩、いったいどんな感じで耳に響くのか。動画サイトを漁ってみたら、次のようなのが見つかった。



演奏者がどういう人か、なにをもとにしてこういう演奏になったのか、精しいことは分らないが、とにかくこの演奏は私を魅了した。まさにギリシャの歌姫が、キタラを伴奏に歌いだしたかのような気がしたからだ。そして、ここに聴かれる歌の響きが、西洋というよりむしろ東洋的なのが私には興味深かった。井筒俊彦が東洋を定義して、「西は古代ギリシャまで」といっているのを見て、それはちょっと強引ではないか、と思ったが、アーリア系ということでは、たしかに古代ギリシャは東洋の西漸と考えることもできる。

視聴するには、やはりテクストがあったほうがいいだろうと思って、下にギリシャ語をローマ字に移したものをあげておく。もとより不完全なものだが、なにも手がかりがないよりはましだろう。


Poikilothron athanat Aphrodita,
pai Dios, doloploke, lissomai se
me m'asaisi met' oniaisi damna,
potnia thymon.

alla tyid' elth' aipota katerota
tas emas audos haioisa pelgi
eklyes patros de domon lipoisa
chrysion elthes

arm' Ypozeuxaia, kaloi de s' agon
okees struthoi peri gas melainas
pykna deneuntes pter ap' orano
aitheros dia messo.

aipsa d' echikonto, sy d' o masaira
meidiasais athanato prosopo,
ere otti deyte pepontha kotti
degte kalemi

kotti moi malista thelo genesthai
mainola thymo tina deyte meitho
mais agen es san philotata tis t, o
Psapph, adikeei;

kai gar ai pheulei, tacheos dioxei,
ai de dora me deket alla dosei
ai de me philei tacheos philesei,
koyk etheloisa.

elthe moi kai nyn, chalepan de lyson
ek merimnan ossa de moi telessai
thymos immerrei teleson sy d' auta
symmachos esso.

狂詩について


東洋文庫平凡社)の「江戸狂詩の世界」という本をぱらぱらめくっているが、どうも興が乗らない。中途半端にひねったものばかりで、がつんとくるものがないのだ。「江戸のエスプリがわからぬか」と通人にいわれそうだが、エスプリなんぞはどうでもいい。私が狂詩に求めるのは、もっと下世話な、もっとばかばかしい、もっと狂的な世界である。

たとえばこんなもの。


虎龍一翻知唐将
親々若子南山寿
不避山砂至臨泉
矢張奔馬酔淮南


これを「虎と龍と、一たび翻って唐将を知れば……」などと読んでも意味は通じない。下に読み方を書いておくが、これを見てもなんのことやら分らない人もいるだろう。


こたついちばんしりからしよう
おやおやわかいしゅなにさんす
ふざけさんすなしりんせん
やはりほんまがえいわいな


(註)
「しりんせん」というのは昔のおいらんの言葉で「知らないわ」という意味。「ほんま」というのは「本間取り」の略で、人間にとっていちばん自然な体位をさす。

球形の鉱物標本


長らくご無沙汰していた鉱物標本だが、久しぶりに一点買った。今回のは球形に研磨したシャッタカイトその他の鉱物で、最近ちょっと宇宙づいていることから、星のようにみえるオブジェが欲しかったというのが正直なところ。



星でいえば月と地球とを混ぜ合わせたような感じだろうか。なんとなく水があって大陸があるようにも見えるし、クレーターの凸凹に覆われているようにも見える。

そんなふうに宇宙幻想と鉱物幻想とを重ね合わせるのは個人的には楽しいのだが、じつをいえば、鉱物を眺めることそれ自体が、宇宙を眺めることに通じていることを、なんとなくでも認識している人はどれだけいるか。

堀秀道氏は、鉱物と岩石との違いを説明して、こう書いている。

「(花崗岩石灰岩のような)岩石は鉱物の粒が集合したものである。

ところが、方解石や石英や長石のような鉱物はルーペや顕微鏡で拡大しても、粒は見えてこない。強いて拡大をつづければ、見えるのは原子やイオンだろう。

つまり、鉱物は地球や宇宙を構成する固体の最小単位であり、生物にたとえれば細胞にあたるものと言えるかもしれない」

そして堀氏は鉱物をイメージするスローガンを掲げる。いわく、

「鉱物は手にとれる原子の世界」
「鉱物は地球の細胞」
「鉱物は大地の芸術作品」

つまるところ、鉱物というのは、原子論と宇宙論とがそこで出会う「場」なのである。

こういう観点からすれば、古代の人々が鉱物に与えてきたさまざまの効能も、なんとなく理解できるのではないかと思う。現代人が科学から得る知識を、古代人は直観と想像力から得ていた、といえるかもしれない。

高山宏『夢十夜を十夜で』


高山先生が学生たちを相手に『夢十夜』の講義をした記録のようなもの。多少は編集されていると思うが、だいたいこんな感じで授業が進んだ、という雰囲気は伝わってくる。

最初のほうに、「この十篇を一貫してマニエリスムの文学とは何かを論じられることになれば最大の目的は達せられる」とある。そうそう、私たちが期待するのは、まさにこの路線なのだ。これでなくては、日本における汎マニエリスムのスポークスマンたる氏らしくない。

さて内容のほうはどうか。

まあ好みにもよると思うが、私はこの本を読んで『夢十夜』の理解が深まったとか、そういうことはいっさいなかった。『夢十夜』は子供のころに読んだままの、無垢な姿で今もある。

本書中、高山氏が言及している書物をあげると──


ジークムント・フロイト『機智論』
ロザリー・L・コリー『パラドクシア・エピデミカ』
ホーフシュテッター『象徴主義と世紀末芸術』
デズモンド・モリス『マンウォッチング』
ノースロップ・フライ『批評の解剖』
尹相仁『世紀末と漱石
キャロリン・マーチャント『自然の死』
ロンダ・シービンガー『植物と帝国』
ティーヴン・グリーンブラット『驚異と占有』
マリオ・プラーツ『肉体と死と悪魔』
バーバラ・M・スタフォード『エコー・オブジェクト』
アト・ド・フリース『イメージ・シンボル事典』
ウィリアム・エンプソン『牧歌の諸変奏』
芳川泰久漱石論──鏡あるいは夢の書法』
東雅夫遠野物語と怪談の時代』
ヴォルフガング・カイザー『グロテスクなもの』
ブラム・ダイクストラ『倒錯の偶像』
ミルチャ・エリアーデ『聖と俗』
大室幹雄囲碁の民話学』
山田晃『夢十夜参究』
フィリップ・アリエス『子供の誕生』
ハインリッヒ・ヴェルフリン『ルネサンスバロック』『美術史の基礎概念』
マックス・ドヴォルザーク『精神史としての美術史』
ウィリアム・ホガース『美の解析』
フレデリック・アンタル『ホガース』
フェルナン・アリン『宇宙の詩的構造』
ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』
石井研堂『明治事物起源』
ウィリアム・ウィルフォード『道化と笏杖』
漱石研究』誌、第八号、『夢十夜』特集
グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』
エドマンド・バーク『崇高と美の概念の起源の歴史的研究』
志賀重昂『日本風景論』
エルンスト・R・クルティウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』
ハーマン・メルヴィル『白鯨』『詐欺師』
アルトゥール・ショーペンハウエル『意志と表象としての世界』
萩原朔太郎猫町
マーティン・アダムズ『虚無 Nil
ラインハート・クーン『真昼の悪魔』
高山樗牛『厭世論』
松山巌『乱歩と東京』
ジョージ・バークリー『視覚新論』『人知原理論』
ミシェル・フーコー『言葉と物』
種村季弘『壺中天奇聞』
ヴァルター・ベンヤミン「パリ── 十九世紀の首都」
伊藤銀月『日本風景新論』


ざっとこんなところだ。こうしてみると、いかに高山氏が自分の座右の書を『夢十夜』という小さい世界に詰め込もうとしているか、手に取るようにわかるだろう。そして、本書の内容もだいたい見当がつくだろう。

しかし、『夢十夜』のほうでは、こうしてさんざんいじりまわされても、自身はいっこう無傷で、生れたままの無垢の姿を保っている。その勁さの前には、いかなる批評も無力だと思わせるに十分だ。


井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス──東洋哲学のために』


この本の巻末に添えられた司馬遼太郎との対談の中で、著者が「英独仏語なんぞは手ごたえがなさすぎて外国語をやってるという気がしない」と放言(?)しているのがおもしろかった。たしかに、そんなものは赤子の手をひねるようなものですよね。

しかし、この、抵抗感がないというのは、井筒先生の文章にもあてはまる。上に引いた文をそのまま使えば、「井筒の本なんぞは手ごたえがなさすぎて哲学書を読んでる気がしない」ということなるだろう。あんまり文章がうますぎるものだから、こっちはつい分ったような気になってしまうのだが、ほんとうのところはどうか。

そういう意味では、本書所収の「禅的意識のフィールド構造」はけっこうな手ごたえがあった。この前の記事に「コスモロジーモナドジーの交点」というようなことを書いたが、ここでは禅という地平においてその手の考察が展開されている。そして、ここには東洋哲学からあと一歩で西洋のほうに抜けてしまうという、ぎりぎりの局面があらわになっているように思う。

著者は I SEE THIS の SEE のはたらきを極限まで拡大して禅的意識のフィールド構造のモデルとする。この SEE は、西洋哲学で intuition(直観)といわれるものときわめて近いのではないか。

直観を介することで、禅でいうところの「無位の真人」とライプニッツモナドとが仲よく握手しているような、そんな光景が目に浮んでくる。

「ばかなことをいうな」と泉下の著者から痛棒を食らわされるだろうか。