短小亭日乗

短くて小さい日記

葉巻雑感


私が最初に葉巻を買ったのは今年の5月初めだ。それからまる4ヶ月が経過した。その間にどれだけ葉巻に金を使ったか。

計算してみると、驚いたことに121,918円である。一日当り1,000円ほどになる。

そのほか、葉巻を吸うのに必要な道具、あったほうが便利な道具をいろいろ買った。ヒュミドール、シガーカッター、灰皿、湿度計、パーフェクトドロー、ハバノスの葉巻の本など。

これらが総計31,863円だ。

これを見ても、金のかかる趣味であることが歴然としている。

まあそれは初めからある程度は覚悟のうえだったが、これほどの出費になるとは思わなかった。今後は少し気を引き締めていかねばなるまい。

葉巻に限らず趣味というのはお金がかかる。私の場合でいえば、数年前のアンティーク家具集めでかなり散財し、その後の数年の化石集めでまたかなり散財した。そのとき思ったのは、どれほど趣味の領域でセンスを磨いても、金持にはとてもかなわないということだ。どんな趣味でも金のあるやつが最後にぜんぶさらってゆく。それが定めだ。



お金持ちにはかなわない、という例をひとつ挙げよう。葉巻を吸い始めて2年ほどで一冊の葉巻本を上梓した城アラキ氏。氏の『葉巻の時間』の第二部には「シガーカタログ」と題してさまざまな葉巻の実物大写真が掲げられ、各ブランドの紹介とそれぞれのサイズやコメントが付されている。

これらの葉巻はすべて氏が箱で買ったものらしいが、その数じつに170箱という。二年間で170箱ということは、一月7箱のペースだ。これがいかに驚くべきペースであるか、葉巻を吸ったことのある人にはよくわかると思う。今の相場でいえば確実に15万円から20万円、ことによっては30万くらいがひと月のタバコ代に消えてゆく計算だ。われわれには真似のできないことだが、お金持ちにはこんなことは何でもない。


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その城氏の葉巻本だが、私がいちばんおもしろいと思ったのは鴎外と葉巻について書かれたページだ。城氏以前に鴎外と葉巻という観点から記事を書いた人はいるのだろうか。もし氏が先鞭をつけたとすれば、それだけでも『葉巻の時間』には資料的価値がある。

もっとも、鴎外自身は葉巻について多くを語っていない。よほど葉巻という字に興味と同情とを寄せながら読むのでなければ気づかないレベルだ。こんにち、葉巻を吸う鴎外のイメージが多少なりとも実感をもって喚起されるとしたら、その功績は娘の茉莉に帰せられるべきだろう。

森茉莉は父について「葉巻と微笑の男」と書いている。これは私の従来の鴎外像を根本から覆すイメージだ。そもそも私には微笑んでいる鴎外というのが想像がつかないのだ。ましてやあの顔で葉巻を咥えているとは、衝撃以外の何物でもない。

彼がどこで葉巻を吸っていたか、書斎でか、居間でか、寝室でか、床に座ってか、椅子に腰かけてか、和服でか洋服でか、森茉莉は「真白な縮みのシャツとズボン下の普段着」と書いているが、つねにそういう格好で葉巻を吸っていたわけではないだろう。

もし軍服を着て葉巻を吸っている鴎外の写真があれば、これほど鴎外に似つかわしいものはない。というのも、その場合、葉巻と釣り合っているのは軍服であって、生身の鴎外自身ではなのだから。


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葉巻の用語にビトラ(vitola)というのがある。手持ちの辞書をみると、女性名詞で、

1、(弾丸の直径を計る)ゲージ・測径
2、葉巻きに巻いた帯封
3、風貌、容貌(= traza)

と説明がある。

葉巻用語としてのビトラは一言でいえば「規格」であって、サイズと形状とを指している。このサイズでこの形のものならこのビトラ、というわけだ。

ビトラには二種類ある。ビトラ・デ・ガレラ(工場名)とビトラ・デ・サリダ(市場名)と。このガレラというのはもともとガリー船を指す言葉で、辞書を見ると「女囚監獄」なんていう訳語もあがっている。どっちにしても狭いところにたくさんの人を閉じ込めて苦役を課しているイメージで、昔の葉巻工場の写真を見ると、なんとなくそれらしい雰囲気は感じ取ることができる。



サリダのほうは「出る」という意味なので、ビトラ・デ・サリダは「ガレラから出たあとのビトラ」ということだろう。実質的に「市場におけるビトラ」ということになる。

ところで、上に書いたように、ビトラには「風貌」の意味もあるらしい。そこで思い出すのは、以前どこかで見た「あなたのビトラに合った葉巻のビトラを見つけなさい」という忠言(?)だ。ビトラを「風貌」と解するならば、これは「あなたの風貌に合った葉巻のサイズとシェイプを見つけなさい」ということになる。

風貌というか、つまるところその人の器量や徳に合った葉巻を選ぶのは、葉巻愛好家にとって一つの課題にはなるだろう。


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ワイン用語から葉巻に転用されたものに、マリアージュとボディがある。前者はとくに問題ないだろう。後者については一部で誤解や混同があるように思う。ニコチンの強さとボディの強さに相関性があるとしても、両者は本質的に別物だ。ボディとは日本語でいえば「コク」のことで、味わいの奥行や深さを指す。フルボディの葉巻といえばコクのある葉巻のことで、必ずしもニコチンの強い葉巻のことではない。

マリアージュについては、いろいろ試してみたが、まだこれといった組み合わせは見つかっていない。葉巻の味を損ねも引き立たせもしない飲み物として、いまのところ水が私にはいちばん合っている。この季節、台所でパンツ一丁で葉巻を吸っている人間には似合いのマリアージュだろう。


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最近葉巻を吸い始めた人間にとってショックなのが、8月15日のキューバ葉巻の値上げだ。せっかく興味をもったのに、とても国内では買えない値段になってしまった。いや、もちろん買おうと思えば買えるのだが、それだけの価値が商品に見出せないのだ。私の乏しい見聞の範囲でいえば、ロメオの2番とタバカレラのコロナとは同等の葉巻なのだが、キューバ産のロメオは2,000円、いっぽうのタバカレラは400円である。同等品に5倍のお金を払う人間がいるだろうか。

私は値上げ前に、いちおうキューバ産に当りをつけておこうと思って、ハービスにある某シガーショップでキューバ産4本を含む計8本の葉巻を買った。ところが、この8本のうち4本が吸い込み不良なのだ。不良率じつに50パーセントである。

ハービスにある某シガーショップの品質管理がなっていない、というのではない。葉巻には当り外れが必ずある。しかしもし日本に入ってくる葉巻の大半がいわゆるB品だとしたら、困ったことになりはしないか。しかも今回の値上げである。B品をぼったくり価格で売らねばならぬショップも大変だ。私はハービスにある某シガーショップがいったいいつまで保つものか気がかりでならない。

ヒュミドールで葉巻を育てる

私が最初にプレミアムシガーを喫したのはふた月前のことだが、そのころネットで読み漁っていた雑多な記事のなかに、「ヒュミドールで葉巻を育てる」というような文言があって私の注意を惹いた。私はこれを見て、とっさにホムンクルスのことを思い出した。ホムンクルスは周知のようにレトルトのなかで育てる。こうしてレトルトのなかのホムンクルスと、ヒュミドールのなかの葉巻とが類比的なものとして、私の脳裏に印象づけられたのである。

そうなるともうヒュミドールが欲しくてたまらなくなる。とはいうものの、手持ちの葉巻がないのにヒュミドールを買ってどうするのか。その前に、始めたばかりの葉巻趣味がはたして今後も続くかどうか、自分でもよくわからないのだ。ヒュミドールを買ったものの、けっきょくは無用の長物になり果ててしまうおそれは大いにある。

そうなっては困るので、市販の最安値のものを求めることにした。どうせ遊びなのだから、いちおう形だけ整えようという心づもりだ。

その安物のヒュミドールにシガリロや安葉巻を並べてみる。この時期、あまり湿度に気を配る必要はないが、デジタルの小さい湿度計も購入した。




こんなままごとのような行為がじつに楽しいのである。これらの葉巻ははたしてちゃんと育ってくれるかどうか、そんなことはあまり問題ではない。子供が鉛の兵隊さんを並べて遊ぶように、私はヒュミドールに葉巻を並べて楽しんでいるだけのことだ。

本格的に葉巻を熟成させるには、もっと現実的は方法がある。ジップロックとボベダ、それにワインセラーを用意するのがとりあえずのベストだ。しかしそういうのは現実的すぎて、遊びの要素があまり感じられないのが私には物足らないのである。それよりは、安ヒュミドールに安葉巻を並べているほうがずっとおもしろい。どのみち私には葉巻の微妙は味わいなどはわからないのだから。


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葉巻の味わいということでいえば、テイスティングと称してレヴューを書くことが行われている。そこで使われる用語には、ナッティー、ウッディー、フルーティ、スパイシー、アーシーと、いろんな形容詞が並んでいる。さらにはチョコレート味、コーヒー味、ミルク味、シナモン臭、燻製臭等々、挙げればきりがない。

しかし、私にはそういった味わいの分析はまったくといっていいほど不可能である。私にとって葉巻の味は、甘いか、辛いか、苦いか、その三種類の要素の消長である。そしてどの葉巻にも通奏低音のように持続するある香りがある。それはしいていえば柏餅に巻いた葉っぱの匂いだ。酸味といわれるものはおそらくこの匂いに相当するのではないかと思っている。

そこで思い出すのは、ヤーコプ・ベーメが自然界の事象を説明するのに用いた「苦い、甘い、酸い、鹹い」の四つの味覚だ。上に挙げた私なりの葉巻の味わいとうまく合致するように思うが、どうか。いずれにせよ、葉巻のなかにベーメの神秘説が含まれていると考えるのは、私には非常に好ましいことだ。


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さて、上にあげた四つの味わいのほかに、雑味と称されるものがある。これの正体が何なのか、いまのところわからない。そもそも諸家が雑味と称しているものが同じものを指しているかどうか、まずそれ自体が疑問なのだ。

私見によれば、この第五元素(キンタ・エッセンティア)ともいいたい雑味成分は、おそらく煙草葉の葉脈に由来するものではないかと思う。葉脈が燃えることにより生じる味であるからには、それは喫煙の全般に亙って現れるはずであり、けっして終盤になって初めて出てくるものではないのだ。それと感じらなくても、雑味はつねに存在する。そしておそらくこの雑味こそが、タバコのボディの強さを決定するものであり、雑味のない葉巻はいくら味がよくてもやはりどこか物足らないものが残るように思う。


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城アラキ氏の『葉巻の時間』は良書だと思うが、冒頭に氏の書いている「一本の葉巻には時間を止める力がある」という箴言(?)にはちょっと疑問を呈したい。

というのも、私の経験では、葉巻を吸っている一時間か、一時間半ほどの時間は、ほんとうにあっという間に過ぎ去ってしまうのだ。映画を見ていても、一時間半といえばけっこうな長さの時間だろう。それが、葉巻を相手にすると、ほぼ瞬時に消え去ってしまう。

だから、城アラキ氏の箴言を私なりに書き換えれば、「一本の葉巻には時間を消し去る力がある」ということになる。

時間を止めるのは、むしろパイプ喫煙だろう。私はパイプを相手に過ごすとき、まるで時間がストップしたかのような錯覚をおぼえることが再々ある。パイプを吸っていて、ずいぶん時間が経ったような気がして時計を見ると、せいぜい5分か10分しか経っていない。王質爛柯の故事のように、パイプ喫煙には一瞬のなかに永遠を幻視させるような趣があるように思う。

貧乏臭くない喫煙のしかた

半年ほど前から細々と、三ヶ月ほど前から本格的に喫煙を再開してみた。まずパイプから始めて、その次に手を出したのが手巻タバコだ。これは2パック買ってやめにした。理由は、あまりにも貧乏臭いからだ。

いやはや、どうにもこうにもここまで貧乏臭い喫煙法があるだろうか。まず手で巻くという作業。これをやると、細かいシャグがあたりに飛び散る。その飛び散ったシャグを指先で集めてまた戻すにしろ、そのまま捨てるにしろ、貧乏臭いことに変りはない。それからできあがった手巻タバコの見てくれがまたおそろしく貧乏臭い。ふつうの紙巻と比べると、その細身で寸足らずのサイズ感と、なんなくクシャクシャしたような質感とが絵に描いたような貧乏臭さを醸し出す。じっさいに喫ってみると、味わいという点ではまるでパイプ煙草の足元にも及ばず、また紙巻ほどの爽快感もない。ひたすら貧乏臭さのみが煙となって立ち昇るのだ。

これにはさすがの私も辟易して、二度とは吸うまいと決心した。まあ、いちおう手巻なるものに興味があったので、それが満たされただけで満足しよう。手巻を知らないのでは、やはり喫煙者としては片手落ちの謗りを免れないだろうから。

そこで次に手を出したのが葉巻、すなわちドライシガーだ。コイーバのクラブシガリロというのを試してみたところ、これがすこぶる私の気に入った。とにかくこれまで吸ってきたどんなタバコとも違うその味わいは、文字通り私を陶然とさせるに足るものだった。私はこれを吸ってボードレールの詩の深い意味(?)をようやく悟ったのである。それはおおげさにいえば匂いというものの弁証法的なあり方に目を開かされたということでもある。


葉巻よ、おまえの燻らす紫の煙には
よほどの不思議が籠っている。

それは乾草の匂いがする。
牛なぞの長く寝ていた石の匂いがする。……

土の匂い、川の匂い、
愛の匂い、火の匂いがする。……


ドライシガーでこれなのだから、プレミアムシガーとなるといったいどんな味がするのか。

そこでまずモンテクリストの3番、それからロメオイフリエタの2番を試してみた。その結果は──

まずモンテクリストだが、ほとんど煙が出て来ないのだ。巻き方が堅すぎるのか、加湿のしすぎか、いずれにせよ煙が出ないのでは話にならない。悪戦苦闘の末放り出すことにした。

次のロメオはなんとか吸うことができたが、これを小一時間ほど燻らせているうちに、猛烈なニコチン酔いを起してしまった。プレミアムシガーに含まれるニコチンやタールがどれほど恐るべきものか、身をもって知らされたわけだ。

こうしてプレミアムシガーの手ひどい洗礼を受けたわけだが、それよりも私に衝撃的だったのは、葉巻を吸う姿がまるでサマになっていないことだった。鏡に映してみる私の顔は、みごとなまでに葉巻と不調和なもので、うすら寒く貧乏臭い印象を残すのみだった。紙巻やパイプならそこそこ似合うつもりだったのに、葉巻ではそうはいかず、つくづく自分の顔の貧乏臭さに嫌気がさした。

もちろん不慣れということもあるだろうけど、ここまで葉巻の似合わない男だったとは……

といっても、そうそうに撤退したわけではない。そんなに早く撤退するにはあまりに魅力的なのが葉巻というものなのだ。どうにかして己の姿から貧乏臭さを払拭して、葉巻に似つかわしいものに改造しなければならぬ。そのためにはどうすればいいか。

こういう課題をつきつけられたのもことの成り行きというものだろう。わが身の内なる貧乏臭さに気づかせてくれただけでも葉巻を試してよかったと思っている。

貧乏なのは生活上致し方ないことで、とくに恥とすべきものではないが、貧乏臭さは道徳上の恥であり、倫理上の悪である。

というわけで、しばらくは葉巻を相手に貧乏臭くない喫煙法を模索しようと考えている。

藤原かね子について


今年の2月にYouTubeで『浅草の灯』という古い映画を見たが、そのとき印象に残ったのが藤原か祢子という女優だった。かつてここにアップしていた自分の日記を見ると、


2月17日(木)
夜「浅草の灯」視聴。杉村春子憎まれ役を好演せり。紅子役の女優よけれど情報少し。藤原か祢子となん。

2月19日(土)
映画依存症いまだ抜けず。「女性の戦い」視聴。藤原か祢子チョイ役にて出づ。また彼女出づるとて「暖流」を見返したるもほんの数秒にては印象に残らざるも無理はなし。次に見し「兄とその妹」、これまたチョイ役なり。彼女おそらくはロシア人の血を引けるか。いずれにせよ端役ばかりでは探索するにも張り合いなし。


ロシア人云々は私の妄想だが、容貌や体格に日本人離れしたエキゾチックなものを感じる。『浅草の灯』は1937年の映画だから、か祢子は当時18歳で、ヒロインの高峰三枝子よりも年下なのだが、すでに堂々たる演戯をみせている。その容貌のせいか、金髪のウィッグもまったく違和感がない。この調子でいけば、洋々たる前途が展けていたはずなのだ。ところがあにはからんや、その後はこれといった出演もなく、鳴かず飛ばずで終ってしまった。



『浅草の灯』で紅子を演じる藤原かね子


この人は名前の表記が一定してなくて、

か祢子
か禰子
かね子
加弥子
か弥子
加根子

といった表記が入り乱れている。某所にアップされていたプロフィールによれば、田中かね子というのが本名らしい。


大正八年十一月九日、赤坂に田中かね子を本名として出生。青山小学校から青山高等女学校二年を卒業後、洋裁を三ヶ月和裁を一年修めて昭和十年芸能喫茶部のレコード係として勤務。閉店の為に家庭に在つたが、大船が新〇〇グループの新人を募つた時に島津監督に見出されて大船「花形選手」にデビュー、続いて「浅草の灯」に大役で〇〇せるも、〇〇〇〇を多くの作品に〇〇乍らも真剣に〇〇してゐる。(大船)


判読しかねる字は〇〇としておいた。

次に彼女の出演作を表にしてみる。ネットで漁った結果なので、あまりあてにはならないが。


成瀬巳喜男『雪崩』(1937)弥生の女中

島津保次郎『浅草の灯』(1937)紅子

島津保次郎兄とその妹』(1939)

清水宏『花形選手』(1937)ハイキングの女の一人

清水宏『桑の実は紅い』(1939)

清水宏『女の風俗』(1939)

清水宏『お嬢さんの日記』(1939)

清水宏『暁の合唱』(1941)

蛭川伊勢夫『人の気も知らないで』(1938)

蛭川伊勢夫『涙の責任』前後(1940)

蛭川伊勢夫『君よ共に歌はん』(1941)

佐々木康『風の女王』(1938)喫茶店のキャッシャー

佐々木康『女性の戦ひ』(1939)ショップガール洋子

佐々木啓祐『半処女』(1938)女給

佐々木啓祐『母は強し』(1939)

恒吉忠康、深田修造『生活の勇者』(1938)

吉村公三郎『暖流』(1939)看護婦長

渋谷実『新しき家族』(1939)

野村浩将『愛染かつら』完結篇(1939)


これだけ見れば短期間にずいぶんたくさんの作品に出演しているようだが、ほとんどが二言三言発しただけで消えるような端役ばかりで慊らない。私が見たかぎりでいえば、『浅草の灯』と『女性の戦ひ』ではいちおう彼女の女優としての演戯がうかがえる。あと未見だが、『涙の責任』ではけっこう重要な役をふられているようだ。

それにしても、これだけの逸材(と私が信じるもの)がどうして映画界から突然消えてしまったか。そういうことはよくあることなのかもしれないし、不遇というものはどこにでもある。しかし主役・準主役を演じたものがひとつもないのでは忘れ去られてもしかたがない。

私の思うのに、たとえば谷崎潤一郎の『痴人の愛』のナオミ役を彼女が演じていたらどうだったろうか。ああいうバタ臭いヴァンプをやるにはうってつけではなかったか。そんなことを考えるところからしても、私は彼女のなかにある種の宿命の女を見出しているのかもしれない。それでなければ、たった一本の映画を見ただけでここまで惹かれるいわれがない。

鷲巣繁男『戯論』


由良君美の『みみずく古本市』で見て興味をもったもので、だいぶ前に手に入れたまま積読になっていた。本書の副題に「逍遙遊」とあって、おそらくこれはマラルメのディヴァガシオンから想を得たものだろう。しかし、その divaguer ぶりは本家をはるかに凌駕する。いったい今の日本で、この本を隅から隅まで味解できる人がはたして何人いるだろうか。いや、味解どころか、読み通すのがまず難事なのだ。

思うに、こういうものを好んで読む人こそ、真のバロック的人間と称すべきなのである。私は本書を通読して、自分がつくづく古典主義的な人間であることを痛感した。そして、バロックという「無駄」につきあっている余裕はもうないのだ、ということにも思い当った。

本書に引用されているおびただしい書目、それらがすべて自分の蔵書であるといういうので、著者はちょっと得意顔なのだが、これもいまの私にはばかばかしくみえる。家じゅうが本だらけなどというのは、若いころにはちょっと憧れたものだが、いまとなってはたんに煩わしいだけだ。蔵書というのもまたバロック精神の発露なのである。

本書は、一見ごちゃごちゃしてるようにみえるが、よくよく見てみれば、一般的詩論(歌論、俳諧論)、文学的雑談、自分語り、それから加藤郁乎論、というふうに分けることがでいる。自分語りにはけっこううざいものがある。こういうものに熱を入れる人間にろくなやつはいない。一般的な詩論はかなり根底のあるもののようにみえるが、例証となる和漢の古典がこちらにはさっぱりなので、猫に小判ということになる。文学的雑談についても、こちらの知識不足で十分に楽しめない。そして、加藤郁乎の俳句というのが、うわべだけ奇を衒った中身のないもので、あえて論じる必要はあるのか、と首をかしげてしまうようなしろものだ。

まあ、中身がないだけに、そのからっぽの内部にはありとあらゆるものを詰め込むことができる。意地悪くいえば、著者は郁乎の俳句をネタにして、おのれの博識と機智とを存分にひけらかしているのだ。

博識と機智、このバロック的なものが幅を利かしているあいだは、若やいでいられる。それらの虚しさを感じ始めるときから、老化が始まり、文学は廃れる。おそらく今後このような本が書かれることはないだろう。日本にはあまり例のないバロック文学の、最後の、そして最大の白熱が本書にはある。そのことだけは確かだ。